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(※本作の試し読み箇所は作品冒頭ではありません。)
「かわいく撮れてるぞー、日奈」と言いながら、校長先生が手招きをして机の上にある紙を見せてくれた。にやけた顔で写っている自分の顔が目に入った。
「あ、もうこれで、これで十分です」と、返事をすると、
「もっとよく見なさい。ほらほら。おまえも海斗もタレントさんみたいだろ。お見合い写真にこれ使え、な」と私の顔の前に校長先生が紙をつき出した。
そんなやりとりを、宮澤さんはにこにこしながら見ていた。そばに立つと、ずいぶんと背が高いんだな、と思った。
校長先生から電話があったのは、取材と撮影のあったあの日から、二カ月がたった頃だった。宮澤さんが、原稿と写真の最終チェックで来ているので、もし都合がつくのなら学校に来てほしい、海斗は夜勤で来られないみたいだから、おまえだけでも見て確認してほしい、と電話で呼び出されたのだった。
仕事を終えて、そのまま車で東京に戻るという宮澤さんと、そそくさと家に帰ろうとした私を校長先生は強引に引き留めて、駅前にある和風居酒屋に連れて行った。運転しなくちゃいけないから、という宮澤さんと、お酒がまったく飲めない私のことなど気にも留めず、校長先生は一人でビールをぐびぐびと飲み、顔をまだらに赤く染めた。グラスを瞬く間に空にする校長先生と、校長先生のグラスにビールを注ぎ続ける宮澤さんを交互に見ながら、私はオレンジ色のチーズときゅうりをちびちびっていた。
「それしか食べなくて大丈夫なの?」
向かい側に座る宮澤さんが心配そうに顔を見た。返事をしようとした私を遮るように校長先生が口を開いた。
「介護はね、宮澤さんが思っているよりはるかに重労働なんですよ。日奈のいる特別養護老人ホームなんかは本当のところ、みたいなもんです。そんな人たちのおむつを替えたり、口のなかをきれいにしたり、吐いたものを片付けたり。ある程度は体力と気力で何とかなります。だけどね、そんなことを毎日毎日していると、食欲がかなくなる日もあるんですよ」
宮澤さんは黙ったまま、どろんと酔いのまわった目で話を続ける校長先生のグラスにビールを注いだ。
「だけど、そんなことは宮澤さんの作るようなきれいな学校案内には書けない。そうでしょ、宮澤さん」ビールを注ぐ宮澤さんの手が止まった。
「気になってらっしゃるところがあるなら、今からでも訂正はできますが」
まじめな顔で宮澤さんが尋ねると、校長先生が自分の顔の前で右手を大きく振った。
「いやいや、私は宮澤さんの作ってくれたものにケチをつけているわけじゃないんだ。本当のことを書いたら、うちの学校に学生は入ってきませんから。介護士は就職率が高いが離職率も高い。給料も安い。若い子は次から次へとやめていく」
私が言いたいのはぁ、と妙な節回しで校長先生が続けた。
「日奈はよくやってるってことです」
校長先生の目の端に涙が浮かんでいるように見えた。この子は自分一人で食ってくしかないんだから。またか、と思った。校長先生と飲むたびに最後はいつもこんな話になるので、早く帰りたかったのだ。うんざりした気持ちで、薄いきゅうりを囓っていると、宮澤さんが私を見た。だけど、その目には、ほかの人が向けてくるような同情らしきものはまったくなくて、ただ私の顔を見ていた。その視線の温度の低さが妙に心地よかった。
「タクシーで帰るから大丈夫。日奈もタクシーで帰れよ」
送っていきます、という宮澤さんの申し出を断って、千鳥足の校長先生は、駅前に停まっていたタクシーに飛び込むように乗ってしまった。タクシーが、ロータリーをぐるりと回って出て行くのを見届けてから、じゃあ、ここで失礼します、と頭を下げると、宮澤さんが、夜遅いから送るよ、と言いながら、私の返事を待たずに背を向け、居酒屋の駐車場のほうにすたすたと歩いて行った。少しだけ強引なその物言いに、鼓動が速くなった。
大通りから一本外れた道を十分ほど走り、消防署の角を曲がって、山に続く道を上がっていく。車が一台やっと通れるくらいの、舗装されていない細い山道なので、車体が左右に大きく揺れ、道の脇に生えた木々の枝や葉がフロントガラスに勢いよくぶつかってくる。
「仕事場まではどうやって行くの?」
「スクーターです。今日は雨が降りそうだったから仕事場に置いてきたけど」
「この道、夜は怖くない?」
「生まれたときからなので……、もうなんとも思わないです」そう答えても、宮澤さんは何も言わない。車のライトが山道を照らす。車から降りたら、もう宮澤さんには会えないんだな、と思ったら、いつまでもこの道が続けばいいと思った。「また会えますか?」という言葉がを塞ぐ。息苦しい沈黙が車内に充満していた。
私の家の前で宮澤さんが車を停めた。
私が住む家は、おじいちゃんが建てた築三十五年の廃墟のような木造平屋建てで、近所に住む小学生たちには、妖怪ハウスと呼ばれている。家の坪数よりも庭のほうが広く、その入り口に赤くびた門扉がある。門扉から家までは、十メートルほどのタイルを敷き詰めたコンクリートの小道があるのだけれど、私のふくらはぎのあたりまで伸びすぎた草に覆われてすっかり見えなくなっていた。草を刈らないといけない、と思うのだけれど、休日はそんなことをする気力すら湧かなかった。車から降りて、デイパックからマグライトを取り出し、りをつけた。
「あの、送ってくださってありがとうございました」そう言いながら、お辞儀をすると、「家に入るのを確認したら車を出すから」と宮澤さんが言った。
いつものようにマグライトで足元を照らしながら、庭を横切って、玄関に向かう。背中に宮澤さんの視線を感じていた。草のなかを歩くと、夜露のせいで、足元がひどく濡れた。玄関ドアの前に立って、マグライトで宮澤さんの車を照らし、ありがとうございました、と大きな声で言った。
「庭の草を」
マグライトの丸い光のなかで宮澤さんが車の窓を開け、口に手を当てて、大きな声で言った。少し聞こえにくかったので、私も左耳に手のひらをあてた。
「刈ってあげようか」さっきよりも大きな声で宮澤さんが叫んだ。
「っていうか、刈らせてもらえないかな」
右肩にかけていたデイパックを落としそうになって、マグライトが揺れ、灯りの輪のなかから宮澤さんが消えた。もう一度、車を照らして、はい、お願いします、と叫んでからお辞儀をした。玄関のドアを閉めると車が出て行く音がした。デイパックを抱きしめたまま、しばらく玄関に立ちすくんでいた。すんなりと再会の約束をさせてしまった宮澤さんと、それを受け入れてしまった自分の大胆さに驚いていた。耳が熱かった。