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【第151回 直木賞 受賞作】 『破門』 黒川博行
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【第151回 直木賞 受賞作】 『破門』 黒川博行

2014-07-14 12:00
     マキをケージに入れて餌と水を替え、エアコンを切って事務所を出た。エレベーターで一階に降り、メールボックスを見る。チラシが一枚あった。手書きの下手くそな字だ。
    《あなたは奇跡を信じますか――。不治の病がなおった、宝くじが当たった、あこがれのひとと結婚した、仕事で大成功をおさめた。願えば実現します。ぜひ一度、わたしたちの集会に参加してください。奇跡はほんとうにあるのです。ワンダーワーク・アソシエーション大阪支部》
     どちらが北かも分からない殴り書きのような地図が添えられていた。どうせなにかのインチキ宗教だろうが、こんな誘いに乗るやつがいるのか。不治の病がなおるのはまだしも、結婚なんぞ誰でもできるだろう――。
     チラシを丸めて廊下の鉢植に捨てた。福寿ビルを出る。そこへBMWが停まった。シルバーのBMW740i。わるい予感がする。
    「どこ行くんや」
     スモークのウインドーが下り、オールバックに縁なし眼鏡、黒のスーツにダークグレーのネクタイを締めた悪魔が顔をのぞかせた。「まだ六時すぎやぞ。ちゃんと働かんかい」
    「おれはね、定時に退社すると決めてますねん」
    「退社やと? そらおまえ、従業員が百人はおる会社やろ。おまえんとこはおまえひとりだけの超零細個人商店やないけ」
     くそっ、六時前に帰ったらよかった。こんな腐れに会わずに済んだのに。
    「おまえ、映画好きか」桑原は訊く。
    「嫌いですわ」
    「嘘つくな。わしは聞いたぞ。年に百本はDVDを観ると」
    「そんなこと、いいましたかね」
     こいつはよく憶えている。どうでもいいことを。
    「おまえみたいに暇な貧乏人はレンタルの映画で孤独を紛らわすんや。女がおらんから映画館に行くこともないしのう」
    「いったいなんですねん。嫌味をいいにきたんですか」
    「おまえに仕事を持ってきたったんや。ありがたいと思え」
    「仕事……。建築ですか、解体ですか」
    「ま、乗れ。立ち話はしにくい」
    「おれは立ってるけど、あんたは座ってるやないですか」
    「そういう賢い理屈こねてると、せっかくの仕事をフイにするぞ」
    「フイでけっこうですわ」
     桑原と仕事はしたくない。身に染みている。
    「二宮くん、わしは頼んでるんや。車に乗ってくれとな」
     桑原の声が低くなった。この男は唯我独尊だから、怒らせると暴れる。
     二宮は諦めて助手席に座った。車は音もなく動き出す。
    「この車、旧型ですね」
     7シリーズは確か、三年前にモデルチェンジした。「高級車フェチの桑原さんに旧型は似合わんのやないですか」
    「若頭にいわれたんや。組長よりええ車に乗るなとな」
    「組長の車はなんです」
    「センチュリー」
    「センチュリーは7シリーズより高い車やないですか。向こうは十二気筒で、こっちは八気筒」
    「ごちゃごちゃうるさいのう。わしは車に厭きたんや」
    「へーえ、そうですか」
     桑原のシノギが細っているのかもしれないと思った。長びく不況で二宮の仕事も減っている。七月も半ばをすぎたというのに、今年の売上は二百万にとどいていない。事務所の家賃や経費をひくと、まちがいなく赤字だ。母親から借りた金は、いくら催促なしとはいえ八十万を超えている。
     車は四ツ橋筋に出た。五車線の一方通行路を北上する。
    「どこ行くんです」
    「飯、奢ったる」
    「そらごちそうさんです」
     どういう風の吹きまわしだろう。「それで、仕事というのは」
    「映画や。映画を撮る」
    「撮る? 観るのまちがいやないんですか」
    「製作するんや。映画を」
    「桑原さんが?」
    「わしやない。プロデューサーが製作するんや」
     桑原は不機嫌そうに、「名前は小清水。組長の古い知り合いで、Vシネのプロデューサーをしてた」
     このところVシネマは売上が減少し、製作本数も激減した。小清水の本業は映画プロデューサーだが、それでは食えず、タレント養成学校をしているという。
    「もう二十年ほど前や。うちの組長がまだ若頭やったとき、東大阪のパチンコブローカーが小清水を連れてきた。どういう話やったんかは知らんけど、組長は小清水の映画に組の金を出資したんや。それがそこそこ当たって三百万ほどの稼ぎになった。組長は味をしめて、そのあと二本、出資したけど、みんなポシャッた。……そらそうやろ。映画は博打や。当たるか当たらんかは上映するまで分からん。わしはそのころ堺におったから、どんなもんか観てないんやけどな」堺とは、大阪刑務所のことだろう。
    「Vシネて、ほとんどがヤクザ映画でしょ」
    「ホラーも多いらしい」
    「二蝶会が初めて出資した映画は、なんてタイトルです」
    「『大阪頂上戦争・組長の身代金』。高凪剛志が主演した」
     高凪剛志――かつてVシネの頭領と呼ばれて粗製濫造のヤクザ映画に次々に主演し、最近はテレビドラマで顔を見る。なかなかに味のある、二宮は好きな俳優だ。
    「おまえ、観たんか。『大阪頂上戦争』」
    「ヤクザ映画はどれも同じようなストーリーやし、観ても憶えてませんわ」
    「麻雀映画はどうや。『天和の鷹』」『大阪頂上戦争』のあとに出資した映画だという。
    「麻雀と映画は合わんでしょ。『麻雀放浪記』はよかったけど」
    「なんや、その『麻雀放浪記』いうのは」
    「知らんのですか。阿佐田哲也原作、和田誠監督のモノクロ映画」
    「おまえはフェチやのう。白黒の映画まで観るか」
    「『七人の侍』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』、どれもモノクロですよ」
    「知ったかぶりすんな。黒澤ばっかりやないけ」
    「好きですねん、黒澤明。活劇を撮らせたら最高ですわ」
    「活劇は『仁義なき戦い』やろ。日本映画の金字塔や」
    「キンジトー? なんです、それ」
    「おまえはあほか。金字塔も知らずに映画を語るな」
     ちょっとからかってやったらこれだ。桑原はすぐ増長する。

     桑原は長堀通を右折し、松屋町まで走って『コルカタ』というインド料理店横のコインパーキングに車を駐めた。
    「カレー食うんですか」
    「わるいか、カレーで」
    「いや、桑原さんのイメージは、ステーキとか鮨やから」
    「フレンチもイタリアンも食う。今日はインディアンや」
     車を降り、『コルカタ』に入った。香を焚いているのかジャスミンの香りがする。壁はインドのポスター、天井は造花だらけ、床は塩ビのタイル張りで、テーブルと椅子も安っぽい。桑原は窓際に席をとり、生ビールをひとつ注文した。
    「なんでも食え。好きなもんを」
    「まずはタンドリーチキンですかね」
     メニューを開いた。できるだけ高いものを食ってやろうと思ったが、カレー料理はたかが知れている。ウェイターを呼んで、オリエンタルサラダ、ガーリックスープ、マサラオムレツ、チキンサモサ、タンドリーミックスグリル、グリーンカレーにナンを二枚頼んだ。
    「おまえ、そんなにぎょうさん頼んで、みんな食うんやろな」
    「桑原さんもつまんでください」
    「わしはさっき食うた。鰻をな」
    「それを早ようにいうてくださいよ。あほみたいに注文せんかったのに」
    「おまえの食いっぷりが愉しみやのう。もし残したら、その大口をこじあけて皿ごと詰め込んだるから、そう思え」
    「それより、さっきのことはどうなったんですか。映画を撮るんでしょ」話を逸らした。
    「おう、そのことや」
     桑原は煙草をくわえた。「先週の月曜日、小清水が毛馬の事務所に来よったんや。風采のあがらん、よれよれのスーツ着た百ワットがなにをいうんかと思たら、組長の森山さんに会いたい、とぬかすんや」
    「百ワットて、なんですか」
    「電球や」
    「ハゲてるんですか、頭が」
    「よう光っとる」
    「なるほどね」
    「組長は本家の定例会でおらんかった。小清水は組長の知り合いやというから無下にもできん。若頭とわしが応接室で話を聞いた」
     小清水隆夫は『株式会社フィルム&ウェーブ 代表取締役』の名刺を出し、企画書をテーブルに置いた。《映画・メディア クロス企画書 フリーズムーン》とあり、会社案内と作品概要、主な登場人物のイメージキャストが書かれていた。
    「『フリーズムーン』いうのは原作や。羽田弘樹のハードボイルド小説で、韓国と日本が舞台になってる。北朝鮮から日本に潜入したスパイを韓国のKCIAが追いかけてきて、日本の公安刑事と組んで暴れまわるストーリーや。カーチェイスあり、ドンパチあり。どえらい派手な映画になると、小清水はいうてた」
    「シナリオあるんですか」
    「まだや。いま書いてる」
     脚本は三宅芳郎、監督は千葉浩司――。ふたりとも、二宮は知らない。
    「製作費はいくらです」
    「三億とかいうてたな」
    「で、二蝶会はいくら出資するんです」
    「組長は出さん。前の博打で懲りてる」
    「出資もせんのに、映画を撮るというたんですか」
    「若頭がえらい乗り気なんや。なにを血迷うたんか知らんけど、金を出すといいだした」
    「二蝶会の金ではなく、嶋田組の金を?」
    「そういうこっちゃ」
     神戸川坂会の直系団体である二蝶会の構成員は約六十人で、組持ちの幹部が五人いる。嶋田は二蝶会の若頭だが、自分の組にもどると三次団体嶋田組の組長になる。嶋田組の構成員はいま、十二、三人のはずだ。
    「小清水は口が巧いんですか」
    「そう巧いとは思わんかったな。百万の金が一千万、二千万に化けるような大ボラは吹かん。それで若頭も乗り気になった」
    「嶋田さんはいくら出すんです」
    「さぁな……。若頭の腹づもりは分からんけど、一千万は出すんとちがうか」
    「映画はコケる。コケたらパーですよ」
    「わしもそういうたんや、若頭に。そしたら、おまえが製作に噛んで売れる映画にせんかい、とこうや。むちゃくちゃやで。わしがあの日、事務所におらんかったら、こんなめにあうことはなかった」
     聞いていておもしろかった。桑原の難儀は二宮の幸せだ。もっと困れ、もっと。
     生ビールが来た。桑原はさっさと手を出して口をつける。半分ほど一気に飲んで、煙草に火をつけた。
    「車やのに、飲んでええんですか」
    「どうってことあるかい」
    「おれも飲も」ウェイターに手をあげた。
    「あほか、おまえは。ショーファーが飲酒運転してどないするんじゃ」
     くそっ、端からおれに運転させるつもりやったんや――。腹が立つから桑原の煙草を一本抜き、桑原のライターで吸いつけた。
     サラダとスープ、サモサが来た。どの皿も量が多い。サモサは五つも載っている。桑原に勧めたら、揚げ物は食わん、と横を向いた。
    「そもそも、おれはなんでこんなとこにおるんですか。まさか、ショーファーに雇うたんやないでしょ」スープを飲みながら訊いた。ガーリックが利いていて旨い。
    「一昨年、わしとおまえは北朝鮮に行った。若頭はそれを知ってて、シナリオをチェックせいというた」
    「おれは建設コンサルタントです。そんな畑ちがいのことができるわけないやないですか」北朝鮮のことなど、思い出したくもない。
     いままで桑原にはどれほどひどいめにあわされたことか。中朝国境の豆満江では北朝鮮国境警備隊に銃撃され、東三国のマンション建設現場では基礎坑に埋められかけた。桑原に敵対するヤクザに監禁されてずたぼろになったことも一度や二度ではない。触らぬ神に祟りなし。たとえ火が降り地が裂けようと桑原には近づくまいと誓ったのに、いつもこの疫病神から近づいてくる。
    「とにかく、映画関係の仕事はできません。無理です」首を振った。
    「わしもおまえみたいな瓢箪と組みとうないわい」
     桑原はせせら笑った。「けど、若頭が二宮に声かけたれというたんじゃ」
    「有難迷惑ですね。なにがシナリオチェックや」
    「そうかい。それやったら若頭にいえや。有難迷惑やと」
     桑原は携帯のボタンを押した。ほら、と二宮に差し出す。しかたなく、受けとって耳にあてた。
     ――二蝶興業。
     いきなり大声が聞こえた。二蝶会に限らず組事務所の電話番はコール音一回で受話器をとり、○○組、××会、と簡潔にいうのが定まりだ。
     ――二宮企画の二宮といいます。嶋田さん、いてはりますか。
     ――お待ちください。
     電話が切り替わった。
     ――啓坊か。
     ――ご無沙汰してます。お元気ですか。
     ――元気でもないけど、ゴルフぐらいはしてる。たまには新地でも行こうや。
     ――ありがとうございます。連れてってください。
     嶋田はむかしから面倒見がいい。死んだ二宮の父親が現役だったころは、よく家に遊びにきて賑やかに花札を繰っていた。二宮はそんな博打のようすを見るのが好きで、いつも部屋の隅に座ってい、駄賃をもらって煙草や酒を買いにいったものだ。
     嶋田は二宮を啓坊と呼び、遊園地や競馬場や競艇場によく連れていってくれた。二宮は大きくなったら競馬の騎手か競艇のレーサーになりたいと作文に書き、おたくの息子さんはいつもどんな遊びをしているんです、と母親が担任に訊かれたこともあった。思えば、あのころからもう三十年が経つ。
     ――啓坊、桑原から話を聞いたか。
     ――聞きました。映画の件ですよね。
     ――わしは桑原にいうたんや。啓坊とふたりで北朝鮮に二回も行ったんやから、脚本に協力したれと。
     ――嶋田さんは小清水いうプロデューサーを知ってたんですか。
     ――知らんこともない。わしはむかし、小清水が製作した映画にチョイ役で出た。
     ――『大阪頂上戦争』ですか。
     ――そう。ミナミのクラブのバーテンの役や。
     笑ってしまった。嶋田が映画に出たとは初耳だ。嶋田は若いころ、リーゼントにスカジャン、ぴちぴちのジーンズといった装りで、ひっきりなしに髪に櫛を入れていた。バーテンダー役は自分から希望したのだろう。
     ――セリフはあったんですか。
     ――なかった。ワイシャツに蝶ネクタイで、主役の煙草に火をつけただけや。
     いまもビデオカセットを持っていると嶋田はいった。
     ――そのカセット、いっぺん見せてください。
     ――あかん、あかん。イメージがくずれる。
     嶋田の笑い声が聞こえた。
     ――いま、桑原さんといっしょですねん。
     ――そうか。それやったら啓坊が守りをしてやってくれ。
     ――おれ、なんの役にも立ちませんよ。
     ――立たんでもええがな。桑原は後先見ずに走りよるから、たまにブレーキかけたれ。
     ――ブレーキね……。
     雲行きが怪しい。二宮は断わるつもりで話をしているのだが。
     ――映画ができて儲かったら、啓坊にも配当出すからな。
     ――いや、それはありがたいですけど……。
     ――ほな、またな。
     電話は切れた。どうやった、と桑原が訊く。
    「桑原さんの守りをせいといわれました」
    「なんやと。誰がおまえみたいなヘタレに守りをしてもらわないかんのじゃ」
    「嶋田さんがそういうたんです」
    「若頭は喧嘩は一人前やけど、シノギは半人前や。金には緩いし、脇が甘い。わしは若頭の名代で小清水に掛け合うんや」
     桑原はいって、「こら、さっさと食わんかい。おまえが注文したんやろ」
    「やいやいいわんでも食いますわ」
     サモサをほおばったところへオムレツが来た。これもまた皿が隠れるほど大きい。
    「おれは桑原さんの分も頼んだつもりなんですけどね」
    「やかましい。ひとの食いもんを頼むんやったら金払え」
     桑原は天井に向かってけむりを吐いた。

    ※冒頭部分を抜粋。続きは以下書籍にてご覧ください。


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