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興味深かった泉田知事論 (2013/11/05) | |||
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公的な立場にある人間が私的感情に近い表現をとることがあり、困惑する。ある雑誌の記事に触発されて、このことを考えてみたくなった。月刊エネルギーフォーラム10月号の『東電の死命を制す「泉田裕彦」というカオス』という記事だ。記事といえば当方も50年弱、新聞記者、退職後はジャーナリストなどと名乗って記事めいたことを書いてきている。 しかし、案外に人を書いていない。その機会が少ない。初めてということで記憶をたどると地方支局時代の街の名医とのインタビュー対談だったか。だがこれは県版。全国版では石油危機直後の通産省新次官。「ノ―トリアス・ミティ」を「なうての通産省」と訳したのを褒められた。もう死語だろう。しかし、新聞が人物を取り上げる場合、社会面ならともかく、他の面では原則、褒め記事・原稿である。通産次官も新任だから基本は同じだった。「なうて」としたところが若干多少のサビか。新聞の限界だろう。 そこでこの「泉田新潟県知事」の記事を読むと専門誌という自由さはあるものの、かなり踏み込んだ内容と思えた。面白く読めたということである。関心があったのは、知事の権力という側面である。余り意識されないが、知事の権限は巨大である。政府と市町村自治体の間にあって、さまざまな行動をとりうる絶妙な立場にたつ。これを知ったのは、記者なりたてに赴任した地方でその時の知事の様々な横暴に近い権力行使を知ったからだ。司法が一部動きだしたほどだった。 で記事の泉田論が興味深いものとなる。泉田氏については東電に対し「安全と金。どちらが大事か」と迫り、「ウソをつく会社」と断罪した。こうした言葉は普通に人がつかえない。なぜか、簡単だ。そのまま自分に跳ね返ってくるからで、それに気がつかないのがこの人物の特徴なのだろうことを記事は示してくれていた。つまり反論の出来ないような発言しかしない、独特な立場をとっていることを分からしめてくれている。 報道が人間像を取り上げることにはむろんリスクもある。偏りがちという批判が必ずでるからであるが、一方で見てくれの公正報道も欺瞞(ぎまん)なのかもしれない。週刊誌がそこを突く。むろん、それは面白おかしくだが、その中間の冷静な人物評記事はもっとあっていいはずだ。フォーラム記事はサイド面もしっかり取材できていて一味違う。公式でない泉田氏の一面を書き上げてあり、新潟県民も知ること多かったに違いない。一読に値した。
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