コレを書いているのは12月31日である。前回の最後であるディエゴ・スキッシとの対談の約一ヶ月後で、スケジュール帳を見ると真っ赤っか(イベントのある日は赤ペンで丸がついている)なのだが、写真は12月25日で途絶えているし、更に言うと、今月のイベントの殆どに1枚の写真も無い。
これは単に加齢による倦怠なのだろうか。とにかく私は、写真を撮る事にワクワクしなくなってしまった。与瀬山さんとのライブ(南さんとの再会付き)、名越さんとのトークイベント、金沢で和製ミュージカルについての講義、山下洋輔とのデュオ、中原昌也とのトークイベント、何せのQNとOMSBシェイクハンドがあったHOLIDAY5、と、バックヤードの写真を撮れば、流行語大賞が「インスタ映え」であるこの時世にどれほどの価値があるのか解らない物件の連続の中、私はカメラを壊してしまった訳でもなく、偶然持っていなかった訳でもなく、ポケットの中に入っていながらにして、構える事さえしなかったのである。
「もう誰もがやっている事なのでやらない」というのは、当たり前の心理である。私が初めてデジタルカメラを買い、ブログにアップしはじめたのが2007年なので、丁度10年で飽きた、というのも同様である。そもそもSNSに対して否定的だというのは、ここ最近ずーっと言ってる事だ。しかし私は、もっと何か強い、嫌悪感の様な物を感じ始めている。写真を撮って、世に出すという行為に。
それはきっと「もっと音楽を聴いてもらうには、写真を撮らなくてはいけない」という、強迫観念の様な物だろう。私はもっともっと私の音楽を聞いてもらいたいし、本を読んで欲しい、しかしそれには写真を撮らなくてはいけない。それは、関税とか免許とか通行手形とか、とにかく義務の様な物だ。私は90年代に、「ライブ告知に煽りの文章を入れると、客が増えるに違いない」と考えてやってみた。それは「スペインの宇宙食」という著作になったが、10年前から、そこに写真を加えてみた。そして今、写真を撮る事に疲れ果て(プライヴェート用にも撮っていない)、微弱な嫌悪感さえ感じている。ナルシシズムが鼻につく、というような凡庸な話しではない。ナルシシズム自体は恐らくあらゆる人々が死ぬまで旺盛である。私は天啓に従って生きて来たし、それによって後悔した事は一度も無い。私の後悔は「誰かにやらされている」時だけである。写真が撮れない。これは一体、何の予兆なのだろうか?今年最後の更新は、トピックがだから殆どない。来年からは写真は潰えるかもしれない。
この歳になると、死のリアリティがぐんと上がる。というのは、川勝さんの葬式の時に湯山玲子が言った台詞だ。「レクイエムの名手」を出したら、翌年(昨年)母親が亡くなった。両親が亡くなると、軽く、だがアナーキーになる。読者の(有料会員の)皆さん。皆さんの心身の健康と長寿を祈っています。今年が終わって行く。私はどんどん記憶力が退化し、やっと昨年の大晦日の事を思い出した。ピットインの後に六本木ヒルズに行って、MC漢、SIMI LAB、ICI等とバタバタと歳を越したのだった。
<ドナルドトランプチョコレート>
いま「NY土産」で圧倒的な人気、なのだそうだ。50本ほど買って帰って来たが、誰もあんまり喜ばなかった(笑)、ただ、喰うと旨い。