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北村薫の『太宰治の辞書』を読んでいる。
タイトルだけでわかる人はわかるように、「円紫師匠と私」シリーズの、じつに20年ぶりの第6弾である。
買ったのは1年も前なのだけれど、いまに至るまで読まずに本棚に仕舞いこんでいた。
特に理由があって読まなかったわけではない。ただなんとなく積読していただけだ。
そのつもりだが、どこかで、読みたいようで読みたくないような、そんな心理が働いていたかもしれない。
なんといっても、20年ぶりのシリーズ新作、感受性豊かな女子大生だった「私」も、20年ぶん歳を取っているわけである。
変わってしまった「私」を見たくないという気分が、あるいはどこかにあったとしてもおかしくはない。
時は経つ。人は変わる。あたりまえといえばあたりまえのことだが、泰然と受け入れることは容易ではない。小説のなかのことでさえ、そうなのである。
さて、このシリーズを読むのは『朝霧』以来のこととなる。
ひょっとしたらその世界に入りづらいかとも思ったのだが、まったくそんなことはなく、すんなりと入りこめた。
さすがに作家としての力量が違う。最近は「小説家になろう」出身の半アマチュア的な作家の作品を読むことが多いから忘れていたが、ああ、小説とはこういうものだったのだ、という思いがする。
セリフのひとつひとつ、文章の一行一行がしっとりと落ち着いていて、読み耽るほどに深々とその世界に浸りきるような気分になってくる。
そうだ、読書とは、こういう行為だったのだ。
この作品は北村薫のデビュー作から連なるシリーズだけあって、一応はミステリの体裁を成しているが、じっさいには事件らしい事件は起こらない。
「日常の謎」すらない。名探偵の活躍もほとんどない。この作品で主題となるのは、はるかな大正、昭和の文学作品である。
芥川龍之介に、三島由紀夫に、太宰治。きわめて有名な、有名すぎるともいえる作家たちの作品や発言を巡って、主人公の「私」が考察をくり広げる、そういう作品になっている。
そんなものが面白いのか。面白いのである。
まあ、なんといっても北村薫だ。もとは国語教師だったという人物だから、過去の文学作品を読むその目は鋭く、また、あたたかい。
実に細かいところを見つけ出しては、そこに作家の感性なり個性を見て取る。
なるほど、本とはこういうふうにして読むのだ、と思わせられるくらいだ。一読、感嘆するしかない。
この本には、破天荒なトリックとか、理路整然たるロジックといったものは、一切出てこない。
ただ、芥川の「舞踏会」なり、太宰の「女生徒」を紐解いては、ああでもないこうでもないと考え、語るだけだ。
それが読み始めたら辞められなくなるほど楽しいのだから、これは小説の力というほかはない。
まったくどうということはない細部にこだわった作品なのだが、それでも、実に楽しい上に、納得が行くのである。
推理小説のロジックには、ただでさえどこか詐術めいたところがある。
それが文学作品の読解となったら、これはもう、幻術の類に近くなる。なんとでもいえるだろう、とも思う。
しかし、それでも、その幻術にたぶらかされる楽しさ、というものもあるのだ。
北村薫の「語り」は
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