ひとはなんのために生きているのか?

 その問いには色々な答えが考えられるでしょうが、「幸せになるため」というのもそのひとつでしょう。

 ひとは幸せになるために生きる。シンプルだし、それなりに納得がいく答えです。

 それでは、人間はどのようなときに幸福を感じるのでしょうか? 

これにもさまざまな答えがありえるだろうと思います。ここでぼくが取り上げたいのは「自己肯定感の高さ」こそが幸福をもたらすというものです。

 自分自身を心底肯定できているとき、ひとは幸福である。そういうことができるのではないでしょうか。

 さらに考えてみましょう。それなら、どうすれば自己肯定感を得ることができるのか。

 だれかに愛されたとき。なんらかの業績を挙げたとき。そんなことが思い浮かびます。

 しかし、ひとに無条件に愛されたり、傑出した仕事を成し遂げることは容易ではありません。

 もちろん、そんなことなしでもひとは自分を肯定できるし、幸せになることもできるはずだけれど、簡単にはそうできない人たちも多い。

 それでは、どうしても自分を肯定する方法を見つけ出せない人はどうするのか。

 実はこの問いにはひとつの明確な答えがあるのです。それは「ひとを引きずり下ろす」こと。

 自分がひとの上に立つのがむずかしいのだとすれば、他人を引きずり下ろしてしばまえばいい――ロジカルといえばロジカルな結論でしょう。

 だから、世の中には、なんとかして他人の価値を貶めようとがんばっている人たちがたくさんいます。

 そういう人たちは、めったに他人を評価しません。金メダリストだろうがノーベル賞受賞者だろうが、たいした業績であるとは認めないのです。

 そんなものたいしたことないよ、とかれらはいうでしょう。だって、その人物にはこんな欠点があるじゃないか、とも。

 そう、かれらはいつもひとの価値を下げることにのみ熱中しています。

 ちょっとでも瑕疵を見せた人を、かれらは徹底的に攻撃します。

 それが、それだけが自分の「幸せ」に至る道であると信じているかのように。

 じっさいには、かれらにそこまで深い考えはないでしょう。単純に、自分たちのうっぷん晴らしの行動が「正義」であると、ほんとうに信じていることもありえます。

 ほんとうはそれは「正義」には程遠い、ただ自分のストレスを他者にぶつけるだけの醜悪な行為であるわけですが、かれらは決してそんなことには気づきません。

 かれらはどこまでも自己を正当化し、他者を攻撃し、ひきずりおろそうと努力するのです。そうしないと「幸せ」を実感できないから。

 インターネットの各所で常時起こっている「優越感ゲーム」、「上から目線ゲーム」は、この「引きずり下ろしマニア」たちが行っているものです。

 かれらはだれか有名だったり、お金持ちだったり、業績が評価されていたりする人がミスを犯すことが嬉しくてしかたありません。

 そういうとき、かれらは喜々としてその相手を引きずり下ろしにかかります。それこそがかれらの「幸せ」なのです。たぶん。おそらく。きっと。

 ただ、かれらが気づかない、気づこうとしない問題点がひとつあります。

 それは、