ども。「1週間耐久コンテンツ消費計画」3日目にしてだいぶへろへろしている海燕です。
さすがに映画を見るのは飽きたので、きょうは小説を読む日にしようと思ったんだけれど、まだ1冊目を読み終わっていません。
ダメだなー。せめて1,2冊くらいはきょうじゅうに読み終えたいけれど。
さて、この記事では各所で賛否を呼んでいる映画『青春100キロ』について考えてみたいと思います。
この映画、内容のばかばかしい爽やかさに共感を寄せる人もいる一方で、批判的に語っている人も少なくありません。
それ自体はあたりまえのことに過ぎませんが、何しろ映画そのものが単館上映でだれでも見ることができるというものではないために、意見が錯綜している様子が見られます。
そこで、ぼくはもういちど自分の意見を確認するとともに、もうちょっと深いところまで行けないか試みてみたいと思います。れっつ、ちゃれんじ。
当然ですが、ぼく自身は映画を見ています。チケットは売り切れ寸前だったみたいだけれど。
ちなみに、会場には女性も何人かいました。カップルで来ているらしい人たちもいた。だからどうだというつもりはないけれどね。
この映画に対する批判点として最も注目するべきなのは、あきらかに「中だしセックス(コンドームを使わないセックス)にこだわっている」というところです。
AV女優の中だしセックスは、是か、非か。そこにひとつの焦点がある。たとえば、このように書く人がいます。
著名なはてなブロガーが仕事を辞めるにあたって「愛されたくてブロガーになりました。引退記念に100キロ完走した私のファンとゴムなしでセックスします!」と宣言したらどうだろう。まず大騒ぎになる。はてなもホッテントリ入りさせないだろうし、ブログを強制非公開されてもおかしくない。
「大丈夫、ピルを服薬しています」「信頼できる人が面接してくれましたし、性病検査も受けたと聞きました」と書いたら安心するか。しないだろう。「走ってるところとセックスは後ほど有料公開します」と書いたら歓迎されるか。大問題になるだろう。さらに問題なのは「赤の他人とゴムなしでセックス」を言い出したのは関係する本人ではなく、それを撮影して有料で公開しようという人間だということだ。「あのはてなブロガーさんに引退記念としてゴムなしセックスを了承してもらいました!孕ませたい人を募集します!」これを「観た方がいいやつです!」と宣伝するだろうか。
ところがひとたび「AV」の枠に入ると基準が変わる。ハンガーゲームの世界でバトルフィールドでの殺人が罪に問われず、そこでの死が予期されたものであるように、AVと名がついたとたんに視聴者の感覚は鈍る。そうか、AVか。AVタレントがゴムなしでセックスするのか。それなら大丈夫だろう。精神的にも遺恨が残らず、心理的ダメージも受けないし、肉体的にも安全だ。なにしろAVタレントなんだから。
もしかしたら精神的にも心理的にも肉体的にもダメージを受けるかもしれない。100%の避妊はありえないのだから、性病検査も完璧ではないのだから、取り返しのつかないことがおきるかもしれない。でも自己責任だ。AVタレントなんだから。そんなのやる方が悪い。
この意見の一部には賛成です。しかし、べつの部分は納得が行かない。
たしかに著名なブロガーがこの映画と同じことをしたら「まず大騒ぎになる」。そこまではわかる。
しかし、「大騒ぎになるほどのことだから、良くないことである」といえるのか。
問題は「なぜ大騒ぎになるのか」なのではないでしょうか。
それは「コンドームを使わない中だしセックスは危険である」と一般的に思われているからでしょう。
しかし、そもそもコンドームは複数ありえる避妊&性病予防法のひとつにしか過ぎないわけです。
つまり、「コンドームの使用」は「適切な避妊予防&性病予防」とイコールではない。
「コンドームをしているから安全」でもないし「コンドームをしていないから危険」とも限らない。
『青春100キロ』はたしかに「中だし=コンドームを使わないセックス」を売り物にしているわけですが、登場人物の全員が性病検査を受けているであろうことは本編の内容からわかります(業界のルールとして性病検査なしでは出演できないらしい)。
また、当然、なんらかの方法で妊娠を防いでいるであろうことも想像できる。
その意味で「コンドームを使っていないこと」から「危険なセックスをしている」と批判することはできないと思う。
それは「AVタレントがゴムなしでセックスするのか。それなら大丈夫だろう」と考えることでしょうか。
いいえ、微妙に違います。AV女優個人に中だしセックスへの耐性があるから大丈夫だと思っているわけではなく、AV業界という社会的に成立した業界の実態を信用している、ということですから。
もちろん、どのような避妊法なり性病予防法を多重的に試みたところで、妊娠&性病の危険性を100パーセント排除することはできません。
その意味で、複数の異性と中だしセックスすることは一定の危険性を孕むでしょう。
しかしそれは「愛するパートナーとの一対一のセックス」でも同じことです。
むしろ「愛するパートナーとの一対一のセックス」こそ、「この人が性病にかかっていたりするはずがない」と考えるから危険性が高いかもしれない。
結局、この映画のセックスだけが危険なのではなく、すべてのセックスが程度の差はあれ危険性を孕んでいると考えるべきでしょう。
もちろん、「程度の差」はきわめて重要です。
ですが、「コンドームの有無」がその危険性の尺度ではありえない以上、この映画のなかのセックスがそのほかのセックスより相対的に危険であると考えるべき根拠はないように思います。
むしろ、プロフェッショナルなスタッフによる検査と管理が行われている以上、通常のアマチュアの男女(もしくは同性同士)によるセックスより相対的に安全であるとすらいえるかもしれない。
ぼくはそういうふうに考えます。
また、これは批判とはいえませんが、「この映画のなかには男女の心の触れ合いがない」と語っているブログもあります。
つまり、そういうことなのだ。
この作品には、挿入や射精はたくさん存在するが、男女の心の触れ合いとしてのセックスは、ひとつも存在しないのだ。
中出ししてようがなんだろうが、すべてが女体を使ったオナニーなのだ。
上原亜衣の周囲を幾重にも囲んだ素人男優が「亜衣ちゃん好きだ!」と叫びながらオナニーをし、上原亜衣の股間に次々とぶっかけをする。
上原亜衣は、精液を自らの体で受け止めて、「こんなに愛してもらって幸せだ」という。
100キロ走ったケイ君は、望み通り上原亜衣に中出しを決める。
上原亜衣は、泣きながら、「彼が最後の人で良かった、いちばんしっかり目を見てくれた」という。
ケイ君の感想は一言、笑顔で「最高です!」これだけ。
普通に考えて、そこに愛はない。
こんなものが愛であるわけがない。
けれどAV女優にとって愛とは人気であり、人気AV女優であるとはオナニーをたくさんしてもらうということだ。
だから、上原亜衣は間違っていない。
上原亜衣は、自分の置かれた環境で、精一杯の情熱を燃やしているだけなのだ。
間違っているのは、セックスをオナニーにしてしまっているのは、行きつくところまで行ってしまった、AVという狂った世界だ。
そうでしょうか。
ぼくは