海燕さんの本連載、傑作だとおもいます。ぼくは、FF8のスコールとキスティス、リノアの関係で理解しました。スコールはすべてをATフィールドで遮断します。ナルシシズムの塊です。一方、リノアはエロティシズム。リノアは「気持ち悪い」「うざい」のがオタクからの評判ですが、リノアと対話をするとナルシシズムの中に閉じこもっていられないからで、さもありなん、なのですね。自分の認知のゆがみを見る羽目になる。エロティシズムでスコールに接し、ついにはスコールを「コミュニケーション」と「共感」の世界にいざなっていきます。一方、キスティス先生は、スコールのことが好きだけれど、教員としてどうしたとか、若くてキャリアがどうとか、色々な「比較級」の自意識にさいなまれて、ATフィールドをまとったまま近づいてきますね。「壁にでも話してろよ」と言ってもやっても
弱いなら弱いままで。
コメント欄でこんな質問をいただきました。
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コメント
コメントを書く記事にまでしていただいて、恐縮です。
前提の部分も間違いありません。
「タナベに会いたいが会えない人」は
ある程度の生活は可能で、(ナルシシズムの檻さえ出られれば)多くの人に関われる状況にいることを想定しています。
>逆に考えるんだジョジョ、です。「タナベを待つのではない。自分がタナベになるのじゃ」。
よくわかりました。とても納得できます。
心を開いていない人が大量にいるクラスタと、そうでないクラスタとは確実にあって、
そうでないクラスタに属するには経済力とか生活を大事にする視点が重要かなと思ったのですが、
まぁ、クラスタうんぬんより本質は、自分自身の自己受容だろうというのも、理解できました。
心を開いていたら、引きこもってばかりではいられないし、
「心を開いていない相手と応答するのも、また楽しい」のかもしれない。
ひょっとすると、心を開いていない相手が、
ふとしたきっかけで一瞬「タナベ」になるかもしれないですし。
そのときに生まれる共感は尊いものでしょう。
ただ、自分がナルシシストで他人もナルシシストであることを自覚しつつ、
それでも心を開くのはたいへん困難な道ですね^^;
二つの目の質問です。
プラネテスの比喩で言うのが分かりやすいかもしれないです、
Q 2 「なんでタナベは不倫しないんですか?」
前提として、不倫は(仕方ないことかもしれないけれど)自分自身も自分の身近な人も傷つく過程だとします。
心を開いていたら、関わる人々と心の交遊ははじまってしまうのは当然ですよね。
そうすると、”心を開いているがゆえに”多くの人と交わり、結果としてほかの人を好きになっちゃった、
みたいな状況はあるんじゃないかと思います。「スケベ」ですし。
質的には恋愛工学者とは全く異なりますが、
外から見れば惚れっぽい人間です(特に貶してはいません)。
心を開いていくと、その先には、社会制度と自分の心の動きとの間に矛盾が生じてしまうように思います。
心を開いているからこその問題も、またありなむと思っているんです。
まぁ、「心を開いてから考えましょう」あるいは「その矛盾もみんなと共感しながら体験すれば、たのしい!」ということなのかもしれませんが。
どうぞよろしくお願いいたします。
いま旅先なので、お答えは数日後になると思います。しばらくおまちください。