田中俊之『男がつらいよ』という本を読んだ。日本における「男性学」の識者のひとりである著者が、現代における男性の生き方について語った一冊で、学問的な専門性は低く、エッセイに近い内容になっている。

 ぼくはこの手の本をたまに読むのだが、多くの場合、内容に満足することはできない。どうにも内容が古くさくあたりまえのことに感じてしまうのである。

 この本もその意味でやはり完全に満足できる内容ではなかった。この本のメインターゲットは昭和的な意味での「男らしさ」の規範に捉われている男性読者であり、そのような人に向けて「ちょっとその規範から自由になってみてはいかがですか」と訴えているのだと思う。

 しかし、ぼくは既にここでいわれている「男らしさ」というジェンダーから逸脱しまくっている身であり、その意味でこの本の内容のほとんどは無関係なのである。

 何しろ、無職なので社会的な「競争」からはドロップアウトしているし、独身だし、恋人もいないし、当然、子供もいない。その上、趣味はアニメやマンガだ。ぼくはほとんどあらゆる意味で「男らしさ」から脱落している、よくいうなら自由になっている人間なのである。

 そして、それで特に辛いとも思わず気楽に生きている。「世間からの偏見や差別」はたしかになくはないだろうが、ほとんど気にしていないので特に問題はない。

 そういうぼくからすると、この本の内容はあまりにも初歩的というか、当然のもので、特にインパクトを受けることはなかった。一か所、面白いと思ったのが女子高生の売春、そして中高年男性の買春について語った以下の箇所だ。

 あまりにも女子高生やそれを連想させる衣装に魅力を感じる男性が多いので、たまに現実の女子高生を観察してみるのですが、アラフォーの私からすれば本当に子どもであり、性的な引力を感じる要素は皆無でした。
 現実の女子高生は子どもです。それにもかかわらず、女子高生という単語を聞いただけで、性的な興奮を覚えてしまう男性がいます。本当に重症です。早く目を覚ましてください。

 これはおかしいのではないだろうか。たしかに、大人の男性が女子高生を「買って」性的関係を結ぶことには大きな問題がある。ぼくもそう思う。

 しかし「ある男性が女子高生に対し性的に興奮すること」そのものは個人の自由の範疇であり、だれに咎められる理由もないはずだ。そんな個人の性的な自由を問題視することはそれこそ差別であり、ある性的規範の押しつけである。

 たとえば同性愛者を差別してはいけないのと同じように、女子高生萌えのおじさんも差別してはいけない。

 こう書くと、あるいはすぐに反論が返って来るかもしれない。同性愛は自分では変えることができない「性的志向」であるのに対し、女子高生好きは単なる「性的嗜好」に過ぎない。前者を差別することは良くないとしても、後者を批判することは当然のことだ、と。

 しかし、いったいいつ「性的嗜好」であれば蔑視してもかまわないということになったのか。「性的志向の自由」も大切だが、「性的嗜好の自由」だってやはり重要である。

 たとえば、あるおじさんが女子高生をむりやりレイプする妄想でしか性的興奮を得られないとしても、決して蔑まれるべきではない。

 この理屈が届かない人が大勢いることはたしかだ。世の中には(ネットにも)、同性愛者を差別することは良くなくても、腐女子がボーイズ・ラブ小説を読むことを蔑むことは大した問題ではない、と考える人は大勢いる。

 そういう人は大抵、自分はリベラルな人間だと信じ、同性愛者の人権といった大問題に比べれば、腐女子の小説の趣味などどうでもいい問題だと思っているのだろう。

 しかし、これはこの発想自体が差別である。ある人間が抱える問題の軽重を外部から決めていいはずがない。同性愛者の抱える問題こそが重く、腐女子の問題が軽いとは必ずしもいえないはずだ。

 思うに、こうしたことをいいだす人はほんとうの意味で差別を嫌っているわけではないのではないか。ただ「同性愛者を差別することはいけない」という規範をインストールされて機械的にそれに従っているだけで、「そもそもなぜ差別はいけないのか?」ということはまったく考えていないのだろう。

 たぶん「差別は悪いに決まっている」として思考停止しているのだと思う。その結果、「同性愛者を差別することは良くなくても腐女子を見下すくらいはあたりまえだろう」といった判断に至る。

 そんなわけはないのだが。だが、社会学の専門家ですら「本当に重症です。早く目を覚ましてください。」などと書いてしまうわけで、こうした「似非リベラル問題」は根が深い。

 ぼくが既存の男性学に違和を抱くのは、それが男性たちを「古い男性像」から解放しようとするのはいいのだが、その一方で「正しい男性像」、「新しい男性像」にアジャストさせようとするからである。

 たしかに「古い男性像」は現代において批判されるべきだろうが、だからといってだれもが「新しい男性像」に適応できるわけでもないのである。そして、それでべつに問題はないはずだ。

 それにもかかわらず、あえて「新しい男性像」というライフスタイルのみを推奨するのなら、そこには「古い男性」たちに対する差別心があると見なければならない。そうではないか。

 著者は「オタク差別」を問題視しているが、「女子高生に欲情するおじさんなんて異常だ。早く目を覚ませ」といった論理から、「二次元の女の子に欲情するオタクなんて異常だ。早く目を覚ませ」までは半歩の距離しかないはずである。

 こと性に関しては「まとも」や「正常」といった規範を持ち出して人を咎める限り、どうしたって差別に繋がらざるを得ない。

 ぼくはおじさんが女子高生に欲望を感じてもそれ自体は何ら咎められるべきことではないと思う。もちろん、それを少女買春といった形で現実化しようとすれば話は別だということは、先に述べた通りである。

 それにしても、この本を読んで自分が「男らしさ」規範からいかに遠いところに来てしまっているか、あらためてつくづく思わされた。

 この本には「男は雑談が苦手だ」といったことが書かれているのだが、ぼくは何時間でも平気で雑談していられる男である。友人とSkypeやLINEを使って会話をすると5,6時間に及ぶことはざらであり、「女子高生でもここまでしゃべらないよ」といわれるくらい話をしている。

 また、ぼくは男同士で平気で「女子会」的なイベントを開き、南青山のオシャレなレストランを予約して食べに行ったりしている。もちろん、といっては何だが、同性愛者なのではなく、ただただ美味しいものが食べたいからである。

 その上、ニートで非モテ(単に異性にモテないという意味での非モテ)なのにそのことを特別に問題視してはいないし、「リア充」に嫉妬することもない。ぼくはその意味では、この本で書かれている「男性」ではないのだ。

 ぼくがこのようなライフスタイルを確立するまでには、女性たちの生き方を真似することが大いに役に立った。その意味で、現在のぼくのライフスタイルはいくらか「女性的」だと思う。ほんとうに、「男らしさ」などといったものはまるで役に立っていない。

 もっと現代的な男性学、ないし男性論の本を読んでみたいと思う。何かいい本はないだろうか。ないのだろうなあ。男性学の夜明けは遠いぜよ、といった気分になってしまうのであった。