ども。深夜(というか既に早朝か)になってもまだ寝つけずネットサーフィン(死語かな)で暇を潰している海燕です。

 何となく山本弘さんのブログにたどり着いてちょっと読んでいたのですが、その内容が興味深かったので言及しておきます。

 「と学会がやっていたことは「弱い者いじめ」だったのか?」と題する記事で、山本さんは自分が「と学会」で書いてきた文章について、こう書いているんですね。

 じゃあなぜ、単に間違いを指摘するだけでなく、笑い飛ばす必要があるのか?
 理由は簡単、その方がアピールするからだ。

http://hirorin.otaden.jp/e438451.html

 ぼくはこの箇所を読んで、何ともいえない気持ちになってしまいました。「トンデモ本」シリーズにおける山本さんのあの何とも意地の悪い印象を受ける文体は、「アピールするから」やっていたことだったのか!と。

 ということはつまり、山本さんのそのほかの何だかひどく意地の悪い印象を受ける文章も「アピールするから」採用されていると考えるべきなのでしょうね。

 同じ記事のなかで、山本さんは「抱腹絶倒一回は三段論法千回に勝る」という言葉を引き、このように書いています。

 もちろん事実を論理的に説明して批判するのも大事だ。だが、「そんなの信じちゃだめだよ」とアピールするには、笑い飛ばすのが早道なのだ。実際、原田実氏はそうやっている。事実関係をきちんと調べたうえで、「江戸っ子大虐殺」のような笑える部分を指摘するのも忘れない。

 ここで、山本さんは気付いていないのか故意に無視しているのかわからないのですが、「笑い飛ばす」ことと「笑える部分を指摘する」ことを同一の文脈で使用しているように見えます。

 しかし、よく考えてみればわかるように、「笑い飛ばす」ことと「笑える部分を指摘する」ことはまったく違うことなのですね。著者自身がどんなに痛快にだれかを笑い飛ばしていても、読むほうはまったく笑えないということはありえる。

 「だれかひとを笑い飛ばした文章」=「笑える文章」とは限らないということです。ネットにはその手の文章が山ほどあるので、あえて例に挙げる必要もないでしょう。

 で、ぼくは山本さんの文章もそれに近いものがあると思うのですね。たしかに率直に笑えることもあるのだけれど、読み終えてひたすら嫌な気持ちになるだけの文章も少なくない。

 もっというなら、個人的にはと学会での活動の後期に行くほど底意地の悪さばかりが目立って笑えなくなっていく印象でした。

 もちろん、それはぼくの主観ですから、「最後までめちゃくちゃ笑えた」という人もいるかもしれません。しかし、今回、ぼくがこの文章を読んでショックを受けたのはそれに関連することではなく、ああ、山本さんって、本気で自分は社会正義のために人を笑い飛ばしていると信じているんだ、ということなのです。

 社会正義のため、といういい方は適切ではないかもしれません。ですが、続く以下のような文章を読むと、山本さんは「トンデモ本を笑い飛ばす」ことを少なくとも社会的に正しい行為であると認識しているように思えます。

 そうして1999年7月は何事もなく過ぎ去った。
 パラレルワールドのことなんか分からない。でも、もし僕が『トンデモノストラダムス本の世界』を書かなかったら──abさんが言うように、「本人に直接言うなり手紙やメールを出すなり」で済ませ、広く世間に警告しようとしなかったらどうなっていたか……それはいつも考える。
 少なくとも僕は、災厄を防ぐために、自分がやるべきことをやったと、今でも誇りを持って言える。

 つまり、山本さんは自分はあくまで社会のために皮肉や嫌味をいって「広く世間に警告」しているのだ、と信じているのだと思うのです。これがぼくには何ともいえない苦い気分でした。この人は本気で自分を正義の味方だと信じているのだなあ、と。

 ぼくは小学生のときから山本さんの小説を読んでいて、直近の数冊を除いてかれの小説をほとんど読んでいると思うのですが、山本さんの価値観の素朴さには時々、真剣に驚かされることがあります。

 山本さんの小説のなかでは「善」と「悪」ははっきり分かれていてまったく異質なものとして認識されているとしか思えないのですね。これはある種のまた聞きになりますが、

 このほか、平井和正『アンドロイドお雪』や、眉村卓『わがセクソイド』などについても触れ、人間はダメな奴なんだという発想からスタートしている当時の小説が後の自分たちに与えた影響などについても触れた。山本氏は、ダメなんだけどいいところもあるよという形で描こうとしているという。 


 という文章があります。

 これは山本作品の読者として非常によくわかる主張なのですが、しかし、この「ダメ」なところと「いいところ」がまったくかけ離れたものとして描かれるところに山本さんの小説の、ひいては文章一般の特徴があると思います。

 その上で、上記のような文章を読むと、この人は「善(いいところ)」と「悪(ダメなところ)」は明瞭に区別することができると考えているのではないか、という推察に至るわけです。

 まあ、ほんとうのことはわかりませんが、ずっとかれの文章を読んでいると、どうにもそういう気になるんですよね。たとえば、以下の文章。

 僕は昔からSF小説やマンガなどで、ロボットがあまりにも人間そっくりに思考し、人間のように喋るのに反発を覚えていた。人間と同じように考えるなら、それはすでに人間じゃないかと。
 ロボットと人間の違いは、単にボディが金属でできているかどうかではないはずだ。最大の相違点は心のあり方の違いではないのか。
 彼らに「ヒトと同じになれ」と要求するのは無意味である。ロボットはヒトにはなれない。たとえば性的欲求や種族維持本能を持たない彼らに、恋愛感情や母性愛というものが芽生えるとは思えない。
 それでも彼らは心を持つはずだと、僕は信じる。「心」とは「人間そっくりに考えること」ではないはずだ。
 作中に登場する「スカンクの誤謬」とは、『鉄腕アトム』の「電光人間」というエピソードで、悪役のスカンク草井が口にする台詞から来ている。

「アトムは完全ではないぜ。なぜなら悪い心を持たねえからな」
「完全な芸術品といえるロボットなら、人間とおなじ心を持つはずだ」

 この言葉は、「完全なもの」=「人間と同じもの」という誤解に基づいている。実際、多くの人がそう考えている。ヒトは万物の霊長、進化の頂点にある。進化を続けるロボットにとって、ヒトは到達すべきゴールであると。
 そんなことはない。ロボットにとって、ヒトはゴールでもなければ、通過地点でもない。ロボットにはロボットの進む道があり、ゴールがあるはずだ。
 実際に遠い未来、ロボットたちがこの小説で描いたようなゴールに到達するかどうかは分からない。これもまたフィクションだからだ。だが、こういう結末を迎えて欲しいと、僕は切に願うものである。


 ここで山本さんは「ロボットの進む道」や「ゴール」は人間とは違うということを主張しているわけですが、少し深読みするなら「人間とは違って悪い心を持たないロボットのほうが完全だろう」といっているようにも思えます。

 じっさい、この文章の背景になっている『アイの物語』という小説を読むと、そこで描かれているものは人間より倫理的に上位であるとみなされるロボット(マシン)たちの「ゴール」です。

 この小説についてもいいたいことがあるのですが、まあ、それはさらに長くなるので省くとして、ぼくはここで「誤謬」といい切られているスカンクの主張が理解できる気がするのですね。山本さんは文意を読み違えていると思うのです。

 作者である手塚さんの主張まではわからないにしろ、少なくともスカンクがいいたかったのは、「人間と同じもの」こそが完全だということではなく、「「悪い心」をもち、単純明快な倫理の教科書的存在を超えて、善悪では割り切れない複雑な心の領域にまで到達してこそ、完全なロボットだといえる」ということなのではないでしょうか。

 山本さんがそれを上記のように読んでしまうのは、「悪い心」を単純な意味で「悪」と認識してしまうからなのではないか、と思うのですよ。そして、その認識は小説作品にも影を落としていると考えています。

 ぼくは直近の数冊を除いて山本さんの小説本をほとんど読んでいるのですが、そのなかでも愛着の深い本に『サーラの冒険』があります。

 この小説の主人公サーラ少年は、物語の途中でデルという名の少女と恋に落ちます。しかし、最終巻のひとつ前の第五巻で、サーラの前に大きな試練が訪れます。

 サーラにかけられた呪いを解くために、デルが人をひとり殺してしまうのです。ぼくはこの小説の発表当時、この箇所を読んで興奮しました。おお、これで物語は勧善懲悪のレベルを離れ、ハッピーエンドの呪縛から抜け、善悪では計り知れない人の心の闇を描くのだな、と期待したからです。

 ところが、最終巻で、この期待は大きく裏切られることになります。この巻において、デルと再会したサーラはこういい放つのです。

「どうやって……?」デルは弱弱しく反論した。「何をしたって、私の重い罪……消えっこない……」
「ああ、そうさ。君の罪は消えない。でも、償うことはできるだろ? 君のその力を、いいことにだって使えるだろ?」
 その時、サーラの脳裏にひらめいたのは、ドレックノールの下町で目撃した光景――泣き叫びながら連行される娘の姿だった。
「そうだ、この世には苦しんでる人が大勢いる。力を持たなくて、強い者に虐げられて泣いている人たちが――その人たちのために戦おう。君は人を殺した。だから今度は人を救おう。一〇〇人でも、二〇〇人でも、三〇〇人でも……」
 サーラは涙を流しながら、必死になって呼びかけた。
「君にだけやらせない。僕も協力する。君を支えてあげる。君に負けないぐらい強くなる。二人で償おう! 一生をかけて償い続けよう!」

 この箇所を読んで、当時、ぼくはがっくりとしてしまいました。いやいや、それはおかしいでしょ、と思ったわけです。一〇〇人救おうが、一〇〇〇人救おうが、それとデルが無辜の人を殺してしまったこととはべつの問題であるはずです。

 サーラは殺された女の子に対して「そのかわりいっぱい人を救うから赦してね」とでもいうつもりなのでしょうか。もし、ほんとうに罪を償う気があるのなら、少なくとも殺した子の家族には会って謝罪するべきでは?

 ぼくには、てっきり善悪では割り切れない問題に踏み込んでいくかと思った物語が、非常に安易かつ安直に偽善の罠に嵌まってしまっているように思えてなりませんでした。

 たとえば『Fate/stay night』の桜ルートにおいても、主人公である衛宮士郎は同種の問題に直面するわけですが、ぼくは『Fate』にはそういった問題は感じませんでした。

 そして、ある種の失望とともに、これが山本弘という作家なんだな、とも思ったのです。この人は「善」と「悪」を分けて考えるというところから、ほんとうに進む気がないんだなあ、と。

 というか、たぶん山本さんにとってそれはあまりにあたりまえで、疑う余地のないことなのでしょう。「だって、悪いことは悪いに決まっているじゃないか!」といったことなのかもしれません。

 普通、作家になるような人は、大人になるまでのどこかで必ずしも善悪に分かつことはできない人間という存在の不思議に打たれることが多いと思うのですが、山本さんのなかでは「善いことは善いことで、悪いことは悪いこと」という認識は少年時代からまったく揺らがなかったのだ、と考えるしかありません。

 たとえば田中芳樹さんの小説を読んでいてもそういう過剰な潔癖さを感じることはあります。人間の醜悪さ、愚かしさ、おぞましさを憎む少年的な心理。

 しかし、田中さんはそうはいっても(少なくともその全盛期の作品においては)単に善悪に分けられないキャラクターをもそこそこ好意的に描いていると思うのです。

 たとえば、『アルスラーン戦記』のギスカールなどがそれで、この男のせいで少なくとも何十万人もの人間が虐殺されたはずなのですが、作中ではわりに格好良く描かれています。

 もちろん、山本さんの小説にも『サーラの冒険』のジェノアのように、「かっこいい悪役」は登場します。しかし、それはあくまで「魅力的な悪」という域を逸脱しません。そこはやはり違いがあるのでは、とぼくなどは感じる。

 まあ、ここらへんは微妙なところで、ぼくも感覚的にしか語れないのですが、ぼくはやはり山本さんは「善悪の彼岸」を描けない、というかそもそも認識できない作家なのだと思うのです。

 先にも書いたように、「善いことは善いことで、悪いことは悪いこと」というところから一歩も外へ出ない印象なのですね。つまりは、懐疑主義者を自認する山本さんであるにもかかわらず、「善悪という概念そのもの」は信じて疑わないようにしか見えないのです。

 山本さんがブログで批判している栗本薫さんなどは、あきらかにこうした概念を信じていません。もちろん、いち生活人としては善悪の観念はあったでしょうが、それを小説世界に持ち込むことはしなかった。

 栗本さんの小説世界には「主人公」と「悪役」といった対立構造そのものが存在しないのです。たとえば、『グイン・サーガ』の主人公のひとりであるイシュトヴァーンなどは、最終的に「殺人王」にまでなって虐殺を繰りひろげてしまうわけで、善悪にこだわる人がこうした小説を書くわけはありません。山本さんの小説と栗本さんの小説はそもそも前提条件が違うわけです。

 しかし、山本さんはその点を認識せず、そのおかげで、山本さんの栗本さんへの批判は、その一部が非常にずれたものになってしまっている印象です。

 1979年、栗本薫〈グイン・サーガ〉シリーズの第1巻、『豹頭の仮面』が出版された。その中に「癩(らい)伯爵」という悪役が出てきた。癩病に冒され、全身が醜いできものに覆われ、膿を垂れ流し、悪臭を放っているという、すさまじいキャラクターだ。そのおぞましさ、嫌らしさ、邪悪さが、これでもかというぐらいねちっこく描かれていた。(もちろん、本物の癩病=ハンセン病は、そんな病気ではない。

 しかもその患者をおぞましい悪役として描いたのだから、これはもうどう考えてもアウトだ。

http://hirorin.otaden.jp/e314706.html

 「おぞましい悪役」。ここらへんが、いかにも山本さんらしい表現だと思うのですけれど、山本さんにとって「悪い心」をもって「悪いこと」をするキャラクターは即ち「悪役」なのですね。

 しかし、おそらく栗本さんは小説を書くにあたって、そもそも「悪役」という概念による認識そのものをもっていなかったのではないかと思います。

 「世間的には悪とされていることをやっている人物」という程度の認識はあったでしょうが、「悪役が正義に亡ぼされる」とかそういうふうに物語を捉えて構築することはなかったでしょう。

 というのも、栗本さんはあきらかに「善悪の彼岸なるもの」にこそ興味があった作家だからで、山本さんのこの批判が適切かどうかとは別に、ふたりの間の壮絶なずれにぼくはため息を吐きたくなってしまうのです。

 山本さんは良くも悪くも本心から「正義の味方」をやっているんでしょうね。そこらへんはたとえば岡田斗司夫さんあたりとは決定的に違うところで、ぼくは、どちらが良いかということとはべつに、岡田さんのほうがはるかによく理解できます。

 たとえば、山本さんの『魔法少女まどか☆マギカ』の感想などを読むと、その自分とあまりにかけ離れた感覚に、ものすごく違和を感じるのです。もちろん、感想は人それぞれなので、それが悪いといっているわけではありません。ただ、違和はある。どうしようもなくある。

 これは安直なご都合主義のハッピーエンドではない。 
 他の可能性をすべて否定された末にたどり着いた、大きな犠牲を伴うハッピーエンドだ。 
 すべての人が幸せになれたわけではない。 
 悪は絶えることはなく、魔法少女たちは永遠に戦い続けなくてはならない。 
 でも、最後にほむらが見せた微笑みで、すべてが救われる。


 「悪は絶えることはなく」か。山本さんはそういうふうにあのアニメを見たんですね。ここまで来ると違和を通り越して真剣に感心してしまうくらいです。なるほど、そういう感想になるのか、と。

 この文章自体がいくらか皮肉っぽくなってしまったかもしれませんが、ぼくには山本さんを貶める意図はありません。ただ、ずっと読んできた作家だけに、やっぱりちょっと残念な気はするのです。ぼくのかってな思いには違いないんですけれどね。うーん。

 朝だ。