バガボンド(34) (モーニング KC)

 ひさしぶりに井上雄彦『バガボンド』の最新刊が出るそうだ。なんと二年半ぶりの新刊である。武蔵の旅はなおも続く。いままでの物語から見て、そろそろ物語は最終段階に入っているはずなのだが、それにもかかわらずなかなか終わらない。作者自身、悩みながら終わらせ方を模索しているように見える。

 事ここにいたって長く続きすぎではないか、と考える読者もいるだろう。さっさと終わらせてしまえばいいのに、と。しかし、『バガボンド』という作品は井上雄彦にとっても畢生の傑作であるだけに、そう簡単には終わらせられないというのが本当のところなのだろう。

 たしかにここ数巻、武蔵は同じところでぐるぐる回っているようにも見え、いかにももどかしい。最後まで直線で成長していった『SLAM DUNK』にはなかったもどかしさだ。

 しかし、それでもぼくは井上の苦悩を支持したい。井上の実力をもってすれば、ただ「それらしい」結末を用意することは簡単だと思うのだ。武蔵の苦悩にしても、答えらしきものを見出させてやることはそうむずかしくはないだろう。

 あるいはそれで大半の読者が納得するかもしれない。井上にはそれだけの筆力がある。とはいえ、それはしょせん予定調和である。真実、ぎりぎりのところまで自分を追い込んだ末に出てくる回答ではない。

 つまるところ、遠い真実を求めるから悩むことになるわけで、いかにもそれらしい結末で満足しておけばいいという考え方もあるかもしれない。しかし、ぼくとしてはどこまでも真剣に悩んで、そして突破してほしい、と願っている。そのためには二年、三年と待たされることも仕方ない。最善を求める努力とは、そういう性質のものだろう。

 さて、『グイン・サーガ』である。作者が亡くなって数年、ついにほかの作家たちによって本編の続編を執筆するプロジェクトが始動した。作者の逝去によりいったん幕を閉じた物語を再開させる。それには多大な勇気と決断が必要だったに違いない。個人的にはこのプロジェクトを応援したいと思う。

 で、じっさい、その出来はどれほどのものなのか。刊行されている本を読んでみた。悪くない。あの過度の冗長さがないぶん、栗本薫自身が書いたものより読みやすいと感じる読者もいるかもしれない。このレベルで続くなら、それなりに満足いくものが仕上がる可能性は高い。

 しかし、ほんとうの問題は文体だの、人物描写といったところにあるのではない。それはこの先、真に『グイン・サーガ』らしい展開を生み出していけるかというところにある。『グイン・サーガ』らしい展開とは何か。逆説的だがそれは「表面的な『グイン・サーガ』らしさ」を壊していくことができるかということだと思う。

 井上雄彦が単なる「『バガボンド』らしさ」に満足せず、真の正解を模索しつづけているように、『グイン・サーガ』続編執筆陣も、ただ表面的に「いかにも『グイン・サーガ』らしい」だけのものを書いていくだけではいけない。

 ただ単にそれらしいものをなぞっていくだけなら、それは『グイン・サーガ』という限界に縛られているともいえる。栗本薫が生きていたなら必ず破壊していたであろう限界だ。

 もちろん、いかにもそれらしい世界でそれらしい物語を展開したほうが、読者からの支持は受けやすいだろう。そういうものにはある種の安心感があり、保守的な読者は喜ぶのである。しかし、そこにはやはり妥協がある。

 ぼくは挑戦と、そして冒険を望む。常にいまの自分を乗り越えようとあがく者だけが、最高の作品を更新しつづけられると信じているのである。