読むだけで彼女ができる モテる小説

 「サムライハードラー」として知られた元陸上選手の為末大さんのTwitterがおもしろく、よく読んでいる。一昨日のツイートは殊に突き刺さった。


あなたが選ぶように人もあなたを選ぶ。無条件で自分が自分であるという理由だけで自分を愛してほしいというのは残念だけどもう無い。どこまで言っても愛は条件付きで、仕事もそう。社会的なものを捨てられる人は捨てればいいけど、捨てられない人は自分を磨いて認められるしか無い。

 ――為末大 (@daijapan) 11月 26, 2012(https://twitter.com/daijapan/status/273198516325715970)

 「どこまで言っても愛は条件付き」。何とも無情な言葉だ。ぼくたちはしばしば「純愛」とか「無条件の愛情」といったものを求め、また賛美する。それは欺瞞と偽善とに満ちた世間一般の仮初めの愛とはまったく違う、愛の理想像ともいうべきものだ。

 自己愛だの同情だの金銭欲だのといった不純物はまったく介在しておらず、ただひたすらに美しい「愛」。ぼくたちはそういうものにあこがれ、恋愛アニメやドラマなどを見てはため息をつくのである。

 しかし、そうしたものはじっさいには存在しえないと為末はいう。「無条件で自分が自分であるという理由だけで自分を愛してほしいというのは残念だけどもう無い」のだと。愛とは原理的に条件付きのものなのだと。だから、愛に対する欲求を捨てられないひとは自分を磨いて自分のバリューを高め、愛してもらうよりほかにないのだと。

 しかし「条件付きの愛」はどこかぼくたちを不安にさせるものがある。その「条件」を満たせなくなったなら、「愛」もまた消えていくということがわかっているからだ。

 たとえば努力し研鑽を積んで富豪になったとする。そして何とか「愛」を手に入れたとしよう。そのとき、かれは考えざるをえないだろう。「このひとは、お金がなくなっても自分を愛してくれるだろうか。このひとが愛しているのは、お金か、自分か」と。

 あるいは、みごとにダイエットし、美貌を手に入れ、「愛」を得たひとにしても、「自分は太っていても愛されるだろうか」と心の隅では悩むのではないか。「条件付きの愛」はどこかに限界があって、ぼくたちは「無条件の承認」を求めてやまないのだ。