ペトロニウスさんがYouTubeで引用していた記事が面白い。例によっていくらか長くなりますが、引用します。

荒木:僕らの世代はなんだかんだで「頑張れば報われる」という右肩上がりを前提で生きてきた。会社に入って、新人時代は給料低くても地道な努力をすれば、いずれ偉くなって処遇もよくなるぞ。そんな「修行モデル」で生きてきたんです。つまり、今はつらくてもいずれペイする、という長期的な採算で帳尻を合わせる前提で頑張ってきた人は多いはずなんです。ところが、バブル崩壊後の不況や終身雇用の崩壊でじわじわとその前提が崩れていき、このコロナでとどめを刺されてしまった。この劇的な前提の転換を冷静に受け止めないといけないですし、子どもたちはもっと純粋にこの前提をインストールしていることを認識しないといけないと思っています。

すると、子どもたちにかけるべき言葉も変えなければいけないということでしょうか。

荒木:そう思います。修行モデルが通用しなくなった世界では、何が大事になるのか。それは、「今この瞬間が楽しいか」という一点ではないでしょうか。例えば、野球に打ち込む子どもに「毎日素振りを100回やりなさい。頑張れば3年後の大会でヒットを打てるはずだから」というロジックはもう響かないと思ったほうがいい。「不確定の未来に向けての努力」は、彼らのストーリーには通用しないんです。素振りの意味を言い換えるならば、「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」といった感じでしょうか。

つまり、努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている。

荒木:おっしゃるとおりです。すると、これからより大事になってくるのは、その都度その場で得られるリターンを自分で発見する能力です。昭和の大流行ドラマ『おしん』のような、耐え忍んで、耐え忍んで、耐え忍んだ先に……という期待感は、今の子どもたちは持ちづらくなっているでしょう。かつて、体育会系の部活で「体罰」が黙認されていたのも、受ける側の生徒たちが「この痛みの先に最高の結果が待っている」という文脈で許容できたからです。大人だって、会社の上司から理不尽なパワハラを受けても、10年後には「あの時の叱責があったから今の俺がある」と美談に変えられた。そのロジックはもう通用しないのだと自覚しないといけませんね。


 ペトロニウスさんはこの話を「小説家になろう」の作品群と重ね合わせて語っています。よければ聴いてみてください。


 ここで語られている「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」。これが、キーワードです。

 「小説家になろう」の作品は、しばしば「努力」が描かれていない、と批判されます。努力もしていないのに成功するなんてリアリティがない、と。

 しかし、現代において「長年にわたって努力を続けた結果、成功する」という「修行モデル」の物語はもはや説得力がないのですね。

 かつては、努力を続けさえすればその果てに「報い」が待っているということが信じられたのでしょう。それは社会全体が「右肩上がり」の成長を遂げていたからです。

 だけど、現代ではその成長がほぼストップしてしまっているから、どんなに努力したところで「報い」を得られる可能性は非常に少ない。そこで、「努力に対する成果の“収支”の確定」が、「極端に短期」でしか認識されなくなったわけです。

 いま努力したらすぐに成果が欲しい。あるいは、そのような成果しか信じられない。それが、現代の若年層のリアルだと思います。

 これに対して、「辛抱が足りない」といった説教をすることはできます。でも、繰り返しますが、そうやって「辛抱」したところで、報われる可能性はほとんどないのが現代社会であるわけです。その種の説教はもはや無効になっているといって良いでしょう。

 そこで、LDさんがいう「面白さの最小単位」の話が出てくる。「面白さの最小単位」とは、つまり、「いかに短いスパンで読者に先を読むインセンティヴを与えることができるか」というテーマです。

 LDさんがいうには、かつて「紙帝国」がメディアを支配していた頃と現代とでは、メディアのあり方そのものが変化してしまっていると。

 たとえば漫画は、「紙帝国」の栄光の象徴であるところの『少年ジャンプ』が最大部数600万部を売り上げていたときには、「ひたすら物語を長大化する」ことが最適戦略だった。なぜなら、ヒット作が出たらそれを延々と長続きさせることが必要だったから

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 ところが、ソシャゲやネット小説など、他の多数のエンターテインメントと激しく競合しなければならない現代においては、そのやり方は通用しない。そこで、読者に先を読んでもらうため、「面白さ」を「最小単位」で提供する方法論が起こることになる。

 これは、たとえばTwitter漫画などを見ていると最もわかりやすいことでしょう。そこではわずか4ページで「面白さ」を提供しなければならない。エンターテインメントの表現のあり方そのものがメディアの変遷にともなって根本的に変わってしまっているわけです。

 現代においては、たとえば主人公が延々と「努力」を続け、その結果、大きな「成果」を得るといった「修行モデル」の描写、いい方を変えるなら「面白さの最大単位」を求める方法論は通用しない。

 その理由は、そう、「努力に対する成果の“収支”の確定が、極端に短期になっている」からです。

 それでは、「面白さの最小単位」とは具体的にどのようなものなのか? 色々考えられますが、最も端的なものは「小さな成功体験」でしょう。「ほら、今日やった分だけ、上腕二頭筋が太くなっているぞ」というそれです。

 いま、「小説家になろう」発のアニメ『無職転生』や『転スラ』で描かれているものは、まさにその積み重ねですね。『無職転生』では、ちょっと努力すると、すぐに成功する。『転スラ』に至っては、ほとんど何も努力することなしにひたすら成功だけが繰り返される。

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 もちろんそこには苦難も失敗もあるけれど、この場合、それは本質ではない。これは、「努力なしに栄光なし」という「修行モデル」の考え方すると、単なる甘ったるいファンタジーであるに過ぎません。「なろうは現実逃避だ」という類の批判が生まれることも無理はないといえるでしょう。

 ですが、何度も繰り返しますが、「努力」と「成功(栄光)」をワンセットで考える思考のフレームそのものが、すでに過去のものになってしまっているのです。

 こういった「修行モデル」なり「努力神話」のナラティヴはもう現代においては通用しない、とぼくは考えます。

 『転スラ』は「面白さ」を「最小単位」にまで煮詰めるために、「努力」というパートをほぼカットした。いわば、「フリ」があって「オチ」があるという方法論から「フリ」の部分を切除してしまった。これが、『転スラ』から非常にスマートな印象を受けるその秘密だと思います。

 しかし、「フリ」をカットして「オチ」だけがある、そんな物語が面白いのか? いや、あきらかに面白いのですが、それはなぜ面白いのか? そこがいまひとつうまく言語化できない。

 そこで、他者の言説に目を向けてみましょう。飯田一史さんは、『転スラ』の魅力について、このように語っています。

作品内容に目を向けてみよう。『転スラ』は何がおもしろいのか?

用意しているおもしろさの種類が多様なのである。

キャラのかけあいの楽しさもあるし、複雑な物語展開もあれば、主人公リムルなどの転生者たちがなぜ異世界に召喚されたのかといった「世界の謎」もある。大集団同士が戦略を練って戦いあう「戦記」要素もあるし、コミュニティをいかにして導いていくかという「内政」要素もある。


 さすがというか、この意見は非常によくわかる。『転スラ』は「おもしろさの種類」が多彩なのです。よくなろう小説は『ドラクエ』をフォーマットにしているといわれますが、『転スラ』はむしろより現代的なゲームに近い。

 ぼくはここでたとえば『ルーンファクトリー』というゲームを思い出します。『ルーンファクトリー』では主人公にはいくつものパラメーター、つまり成長要素が用意されていて、それがいろいろな行為によって少しずつ向上していきます。たとえば、ただ一定歩数を歩いただけでもあるパラメーターが上昇したりする。

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 『転スラ』はこれと似ているんじゃないか。最初の段階ではシンプルに主人公のレベルアップが「気持ちよさ」を生んでいるんだけれど、どんどんレベルが上がり、視点が高くなるにつれて、べつの「最小単位の面白さ」が開放されていく。

 たとえば、主人公であるリムルの成長だけじゃなくて、脇役のだれそれの成長といった要素も入ってくるわけです。あるいは、国家の拡大とか内政の充実といった要素も出てくる。

 そして、それぞれの要素で「ちょっとずつ気持ちよくなれる」ようになっている。いわば、マルチ・カタルシス・システム。これが『転スラ』の「面白さ」の根幹にあるものであるように思います。

 なろう小説とはつまり「ビデオゲーム疑似体験小説」であるといって良いと思うのですが、『転スラ』にはロールプレイングゲーム要素もあれば、アドベンチャーゲーム要素もあれば、シミュレーションゲーム要素もある。

 そして、つねにそのどれかの「ゲーム性」が動いていて、「小さな成功体験」が続く、なので読者は飽きずに見つづけることができる。そういうことなのではないか、と。

 そのひとつひとつを取れば、おそらく『転スラ』より優れた作品はあるでしょう。もっとよくできた「成長もの(ロールプレイングゲーム)」もあれば、「内政もの(国政シミュレーションゲーム)」もあるだろうし、「学園もの(教育アドベンチャーゲーム)」もあるに違いない。

 しかし、『転スラ』の特徴は、それらの「面白さ」を細かく細かく打ち出してくるところにある。ひとつひとつの「面白さ」は、あるいはカタルシスは小さいかもしれないのだけれど、それが次を読むインセンティヴを生み、いつのまにか「大きなストーリー」に、つまり「最大単位の面白さ」に到達して大きなカタルシスを得るまでになる。

 ようするに『転スラ』から得られる教訓はこうです。「面白さは最小単位まで分割し並列せよ」。この作品の本質的な魅力は、たしかに「面白さが多様であること」にあるのだけれど、それだけでは言葉足らずかもしれない。

 むしろ「多様な面白さが並行していることによって常に「小さな成功体験のカタルシス」が提供される仕組みができていること」にあるというべきではないかと。

 いまでは最初から「最大単位の面白さ」を目指す「修行モデル」のような超長期的な物語スタイルは受け入れられない。しかし、