豹頭王の苦悩―グイン・サーガ〈122〉 (ハヤカワ文庫JA)

 今日は『グイン・サーガ』の話をしたいと思います。この長大な物語第122巻は、主人公である豹頭王グインと王妃シルヴィアの別離を描いた物語です。『グイン・サーガ』を読んでいないであろう大半の読者のために解説しておきますと、この巻の焦点はグインと、シルヴィアの確執。

 グインはもともとすべての記憶を失ってこの世界にやって来たなぞの人物ですが、第70巻でケイロニアの王女であるシルヴィアを娶ってケイロニア王となります。しかし、あるとき、かれはつい先日娶ったばかりの妻を置いて、はるかなパロへと遠征に出てしまい、シルヴィアは一人ケイロニア宮廷に取り残されることになります。そして、このことが、この夫婦にとって致命的な結果を生んでしまうのですね。

 シルヴィアはもともと、世界一の英雄であるグインの妻としては、あまりにも弱く、未熟な少女です。その上、ひと言ではいえないようなさまざまな経緯を経て、ケイロニア王家にとって厄介者に近いとなっています。そのことが彼女の幼い心を苛んだのか、シルヴィアは町へ飛び出し、無数の男たちに身を任せ、ついには子供を身ごもってしまったのです。

 ケイロニア王家にとって、致命的なスキャンダルにもなりかねない大事件。宰相ハゾスはこのことを何とか隠しぬこうとしますが、その行動は、結果として、グインとシルヴィアを決定的に決裂させることになります。

 さて、この展開をどう読むか? このシルヴィアの物語は、ぼくの目には非常に複雑で多層的なものに見えます。これは「「正しさ」とは何か?」「「正しい生き方」とは何か?」というテーマだと思う。

 ケイロニウス皇帝家の一員でありながら、ケイロニアの屋台骨を揺るがすような乱交をしでかしたシルヴィアの行為は、この時代の倫理に照らし合わせるなら、もちろん「間違えて」いる。その上、だれも、彼女自身をも幸せにしません。へたをすれば彼女のこの愚かしい行動によって何十万、何百万という人々が悲惨な目に遭うことすらありえるでしょう。

 その意味で、シルヴィアは、大ケイロニアの皇女として、あまりにも良識と品格を欠いているといわざるを得ません。いや、むしろ、この時代、公に発覚すれば死をもってつぐなわねばならぬほどの大問題をしでかしたとすらいえるでしょう。

 しかし、それでは、シルヴィアはその罪を背負って死ななければならないのか、そうするべきなのか、ぼくは、そうは思わないのですね。

 たしかにシルヴィアはあまりにも弱く、愚かしい。しかし、それは、すべてが彼女ひとりの責任といえるのか? 決してそうはいえないと思うのです。いみじくもすべての事情を知るある男はいいます。

「あのかたは――誰にも大人になることを教えられなかったのです。――あのかたの罪ではない……誰もがあのかたをないがしろにし、笑い者にし……置き去りにした」

 また、宰相ハゾスから話を聴かされたローデス侯ロベルトは語ります。

「ただ、誰も聞いて差し上げなかったのですね。お父様も――お姉さまも、ご父君も、そして我々も。――いまになって、我々は、その罰を受けているのだと思います。無関心と、そして無理解の罰を」

 そう、事態がここにいたるまで、シルヴィアを放置したひとびとにも責任があるはずなのです。だれひとり彼女に心をかけようとはしなかった。だれひとり、シルヴィアのその弱い心を守り、慈しみ、育もうとはしなかった。それが宮廷というものなのかもしれないけれど、そこに愛はなかった。それがシルヴィアをよりいっそう苦しめたのでしょう。

 とはいえ、もちろん、すべての責任を周囲に被せることもできない。シルヴィアは、ケイロニアの冷たい宮廷で、だれに愛されることもなく、かまわれることもなく、ひとり孤独に、育った。それは事実。

 しかし、たとえ、どれほど愛されなかったとしても、むごい目にあったとしても、そのすべてを乗り越え、きちんと成長していく者もまたいるのですから。そう、彼女の姉オクタヴィアのように。

 その上、シルヴィアはすでに成人している。その歳になれば、すべてはあくまで本人の責任であるということもできる。また、たとえどのような理由があるとしても許されることと許されないことがある、ということもいえる。

 それらの理屈はたぶん「正しい」。すべての「正しさ」がシルヴィアの「弱さ」を糾弾する。彼女の罪とは「弱い」こと。孤独に耐える「強さ」を持たなかったことなのです。しかし、ここでぼくは思うのです。それでは、いったい「強さ」とは、「正しさ」とは何なのだろう、何の意味があるものなのだろう、と。

 ぼくはこの世には「正しさ」よりも大切なものがあると思います。ただ「正しい」だけではひとは生きていけないと。なぜなら、ひとはだれも皆、弱く、愚かしく、悩み惑い、苦しみながら生きていくものなのだから。だれも、グインであってさえも、神のように正しくは生きてはいけないのだから。

 先述のローデス侯ロベルトはいいます。

「そう、でも、問題は、ひとの心が誰でも、清廉潔白だったり、強かったり高潔だったりはしてはおられない、ということですよ。私はひと一倍心根が弱いので、それでいっそう、そういう弱い心をもったひとびとの上に同情をよせてしまうのかもしませんが」

 だれも、ただ強く、高潔であるだけでは生きていけない。そもそも、ひとの価値とは、「強さ」とか「正しさ」だけで測れるものでしょうか? ただ強く正しく清く美しい人間だけに生きる価値があり、そうでない者はうとんじられても仕方ないのでしょうか?

 ぼくは、そうは考えたくない。どのような弱い、愚かしい人間にも、そのひとなりに生きていく権利があると考えたい。そもそも、ただ強く、ただ正しいだけでは、本当の意味で生きているとはいえないのではないか。

 ペトロニウスさん(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080808/p5)はTONOの『カルバニア物語』を例に挙げてひとの生きる道を語っていますが、ぼくはここで田村由美の『7SEEDS』を取り上げたいと思います。

 自分の意思によらず未来へ送られた何十人という人物のなかには、選び抜かれたエリートもいれば、落ちこぼれもいます。ひと並み外れた能力を持つひともいれば、何ももたないひともいます。そして、その荒廃した未来世界では、優れた能力を持つことだけがただひとつの価値なのです。この世界では、弱者は生きていけません。ただ強いことだけが正義です。

 しかし、かつて自分の仲間を蹴落とし、生きのこって選ばれたエリートたちは、それぞれに心の傷を抱えています。物語は未完なのでどのような結論が下されるかはわかりませんが、はたして、本当に強いことだけが正しいことなのか? そんな問いかけがこの物語にはあるように思います。

 これはむずかしい問いです。「強さ」だけが価値の世界で、本当に「強さ」以外の価値を見つけられるものなのか? この作品の荒れ果てた未来世界は、ある意味で現代社会の縮図でしょう。いったい田村由美がどのような解答を見つけ出すのか、注目しているところです。

 「強さ」といえば、遠藤淑子『マダムとミスター』最終話で、交わされていたやり取りを思い出します。

 この物語のなかで、「弱いことは悪いことではない」というグラハム少年に対し、幼なじみの少女はこんなことを言い出すのです。

「じゃああなたはシマウマを襲って食べるライオンとライオンにいつもびくびくしながら食べられるだけのシマウマとじゃシマウマの方がいいって言うの? シマウマが食べられているのは弱いからよ 強ければライオンみたいにもっと堂々と生きていけるんだわ」

 グラハムはこう反論します。