コミュニケーション不全症候群 (ちくま文庫)

 コミュニケーション能力とか、コミュニケーションスキルといった言葉が何やらきわめて重要な技能として話題を集めるようになって久しいです。よく考えてみればずいぶん正体不明の言葉ではありますが、ま、そうはいっても、ひととうまくやり取りする能力なしで社会を渡っていくことがきびしいのはたしかでしょう。

 ただ、「いまどきの若い者は――」式の認識が意味を持たないこともあきらかであるわけで、昔のひとがコミュニケーションに長けていたという神話は疑いを持って見なければなりません。

 むしろかつてはいまほどコミュニケーションがむずかしくはなかったと考えるべきでしょう。ぼくたちはあまりにも複雑多様化したコミュニケーション手段を抱えていて、それぞれをどう使いこなせば良いのか必死に学習する必要性を感じている。

 それでは、こういう時代において、ぼくたちはどうやってコミュニケーション能力を磨いていけばいいのでしょう? ぼくの考えはシンプルです。「簡単なことから、しだいにむずかしいことへ」。これに尽きるのではないかと。

 ぼく自身、コミュニケーション能力にはまったく自信がない人間ですが、それでも34歳ともなると、さすがにまともにひとと話すことに苦労はしなくなりました。それもこれも、年齢なりに経験値を積んで来たからだと思います。

 結局、コミュニケーションって、経験から来る慣れに頼るしかないと思うんですよ。コミュニケーション能力を身につけようとすることは、ハードル走を練習するようなものです。まずは低いハードルで跳ぶ感覚を身につけて、それから高いハードルに挑戦する。

 いきなり高いハードルを跳ぼうとすると、失敗して、ときには大怪我をし、トラウマが残って、ますます跳べなくなる。つまり、まずはコミュニケーションしやすい相手とのやり取りを通じて、徐々に自信をつけていくしかないということ。

 とはいっても、人生の各段階において、ハードルは自動的に高くなっていきます。小学生と社会人とでは要求されるコミュニケーション能力は必然的に違うでしょう。中学生なら赦されたことが、社会人には赦されないというのも往々にしてあることです。

 だから、大切なのは人生のそれぞれの局面でハードルをきちんと跳んでおくことなのです。後になればなるほどどうしてもハードルは高くなってくるのだから、それがまだ低いうちに何とか跳ぶ訓練をしておかないと、後に行くほど人生が苦しくなる。

 幼稚園や、小学生の頃の体験が人生にとっていかに大切かということです。その時点でこけてしまって、立ち上がれないと、その後のハードルに連続してつまづきつづける羽目にならないとも限りません。

 大切なのは転ばないことではなく、転んでも立ち上がること。むしろ転んだ経験がないひとは立ち上がる練習をできないから、人生の後半で転んだときに致命的なことになりかねません。

 そういうわけなので、子供をあまり過保護に育てることはやはり考えものかもしれませんね。むしろ幼いうちにコミュニケーションに失敗する経験をしておくことは人生全体を見れば意味があることだと思うわけです。その時点では失敗は致命的なものにならない可能性が高いので、訓練を積みやすい。

 とはいえ、子供の苦しみが大人の苦しみに比べて軽いなどとはだれもいえません。だからやっぱり、コミュニケーションに挑戦することには勇気がいる。だれかが遊んでいるところに行って、「ぼくも入れてくれる?」と訊ねるためには、なんという勇気が必要なことか!