ライトノベル原作の傑作アニメ『スーパーカブ』第一話が神回で凄すぎる。

 この頃、ちょっとひとりのオタクとしてさすがに堕落し過ぎたことを実感していて、一から鍛え直そうと思い立ち、色々アニメを見たり本を読んだりしています。で、そのなかでも何かとんでもない傑作だと感じたのがアニメ『スーパーカブ』。

 これがねー、じつに凄かった。どうしてこの作品を見ようと思ったのかもう良く憶えていないけれど、だれかに教えてもらったのかな? まあ、人に奨められたとしても興味が湧かないと見ないので、何か直感が働いたのだと思います。

 正解でしたね。これは、素晴らしい。ほんとうに素晴らしい。おそらく原作もよくできているのだと思うし、漫画版も面白かったのですが、アニメのクオリティは圧巻です。

 アニメ版はストーリーやキャラクターデザインそのものは漫画と共通しているのだけれど、演出の方法論がまったく違っていて、そのため、アニメと漫画では大きく印象が異なっています。

 漫画が、わりと女子高生の日常ものとして楽しめるようキャラクターも含めてコミカルに描かれているのに対し、アニメのほうはもっとリアリスティックな演出になっている。

 まあ、主人公以外のキャラクターが続々とストーリーに参加して来る中盤以降はいわゆる「空気系」としても楽しく見れるのですが、それでもこのアニメの見どころはやはり「何もない女の子の世界が輝きはじめる瞬間」を描きだした序盤にあると感じます。

 才能も、友達も、恋人も、財産も、何ひとつ持っていない「ないないの女の子」である主人公が、なかば偶然にスーパーカブというバイクを手に入れたことから少しずつ世界が広がっていくところを丁寧に描写する第一話はまさに神回。

 ここにこそこの作品の神髄がある、と感じます。自転車と違い、一定以上の年齢にならないと乗れないバイクには自由の象徴という側面があって、だからこそ『十五の夜』では「盗んだバイクで走りだす」わけですが、この作品でスーパーカブが保証してくれるのはほんとうにほんの少しの「視野の拡張」でしかありません。

 しかし、その「ほんの少し」だけで世界は劇的に変わって来る。このアニメはそのことをじつに丹念に見せてくれます。

スーパーカブと出逢ったことによって、少女・子熊の人生は一転する。

 2020年代に入っていよいよ驚異的な次元に達しようとしているテレビアニメとしても見るからに図抜けた作画と演出のスーパークオリティに支えられた「灰色の日常」の描写は、ちょっとこれはさすがにエンターテインメントとしてどうなのか?と思うくらい、ものすごく地味でありながら、しみじみと「何もない」、「だれにも頼れない」孤独感に満ちていて、何ともやるせなさを感じさせます。

 でも、それがスーパーカブとの出会いによって一転してまわりが鮮明に輝きだす場面を支えている。

 その後、物語を通し一貫して子熊のきわめて狭く限られていた世界は拡大していくことになるわけなのですが、それもべつに何らドラマティックなこととはいえません。ただちょっと古い原付を手に入れて移動が楽になった、それだけのこと。

 しかし、その、たったそれだけで人生が劇的に変わって来るというのが、そこまで彼女がいかに追い詰められていたのか逆説的に語っているのですね。

 「何もない」主人公がすべてを手に入れていく物語というと、ぼくは羽海野チカ『3月のライオン』を思い出します。でも、『3月のライオン』の主人公には、ほかに何はなくとも将棋の才能だけはあった。

 かれはその唯一の才能にすがるようにして懸命に努力を続け、状況を打破していくわけなのですが、子熊にはそういったスペシャルな才能は何もありません。さらに彼女は経済的にも限界的な状況にあり、また、何か活動を起こすようなモチベーションすら持っていません。

 ある意味ではこれ以上ないくらい追い詰められているのです。もうここまで来たらどうにも逆転しないのでは?と思ってしまうくらい、ギリギリのところにいる。

 それが、ただ「人を三人殺している」ためにやたらに安く売られいていた中古のバイクを入手した、それだけで変わる。そこにこの作品の見どころがあります。

 とはいえ、突然経済状況が改善するわけでもないし、失踪した親が帰って来ることもありません。そういう意味ではほとんど何も変わりはしないのです。それなのに、たしかに子熊の生活は一変する。この説得力。

「ないないの女の子」に救済はありえるのか?

 これはもう萌えアニメとか、美少女アニメといって良いものではないように思います。たしかに可愛い女の子たちは出て来るのだけれど、状況設定に花やかさがまったくない。

 この作品、一応は萌え四コマとかいわゆる「空気系」に近いところに属するアニメーションではあると思うのだけれど、それにしてはあまりにも異色です。というか、その進化の樹形図の最新のところにある姿といったほうが良いのかも。

 空気系の進化の系譜、それは、まあ『あずまんが大王』まではさかのぼらないとしても、『らき☆すた』や『けいおん!』あたりから連綿と続いています。

 そしていまさらいうまでもないことですが、このジャンルの楽しさは、「女の子しかいない平和な仲良し空間」の演出にあるのだと思います。

 空気系のアニメでは、一般にたいした事件は起こりません。人が死んだり、異能バトルが起こったり、世界が滅びたりといったことは基本的にありえないわけです。

 だから従来の物語の方法論でいうとそれでは何も面白くないはずであるわけなのですが、その平和でのんびりとした「空気」そのものを味わうというのが、これらの作品の要目なのですね。

 ある意味では恋愛もののアニメから恋愛と男性主人公をカットしてできた世界といえるかもしれません。『スーパーカブ』も、やはりこの空気系の文脈で見るのが正しいのだろうとは思う。

 ところが、空気系として見るとこの作品はきわめて異色です。まず、空気系とは主人公の少女たちの「仲良し空間」を描くところに眼目があるのに、この作品の主役である子熊にはひとりも友達がいない。

 まあ、それだけなら、序盤でひとりぼっちの女の子が友達を増やしていくプロセスを綴った作品もあるからそこまでめずらしいことではないかもしれませんが、じつは彼女には両親すらいないのです。

 どうやらふた親とも死ぬか失踪するかしてしまったらしいのだけれど、とにかく現役女子高生でしかない子熊には「保護者」がいない。このきびしさ。ここを物語のスタートポイントに持って来たことが、この作品の特色です。