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その狂気と絶望を超えてゆけ。希望の物語としての『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。(3749文字)
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その狂気と絶望を超えてゆけ。希望の物語としての『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。(3749文字)

2012-12-07 12:31
    ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [DVD]

     狂乱の『エヴァ』実況放送から一夜が経ちました。環境面で問題が解決し切れなかったところがあり、お聞き苦しい音声であったかもしれませんが、内容はおもしろかったと思います。次回は環境を改善してお送りしたいと考えています。

     さて、昨夜、ニコ生で話したことを憶えているうちにぼくなりにまとめておきたいと思います。全然ぼくのアイディアじゃない部分が大半であるわけですが、まあ大丈夫でしょう。たぶん!

     今回は『エヴァ』テレビシリーズについての放送であったわけですが、やはりというか『新劇場版』の話がメインになりました。その話の内容をひと言でいうなら、『新劇場版』が、特に『Q』が希望と成熟を志向した物語だったということでしょう。

     『Q』の特徴はいうまでもなくいままで「選ばれた人間」であったシンジが「世界の主人公」の座から追放されたところにあります。世界でも数人しかいないエヴァンゲリオンパイロットであり、初号機の最も優れた乗り手として世界に必要とされていたはずのシンジは、今回、なんと「エヴァに乗るな」といわれることになります。

     旧作ではテレビシリーズから劇場版にいたるまで、一貫して「エヴァに乗ること」を望まれていたかれは、今回、ついにその任を解かれるのです。これはつまり「ただひとりの世界の主人公」であったシンジが「平凡なモブキャラ」にまで突き落とされたことを意味します。ここまではだれでもたどり着く認識でしょう。これが何を意味しているのかを問うことが『Q』の解釈の主眼となるわけです。

     それは「絶望」だというひともいると思います。「世界の主人公」ではなくなってしまったということは、シンジがたったひとつ持っていた特権的資格を奪われたということであり、あの凄愴な旧作であら一貫して維持されていたシンジの「特別さ」はなくなり、ついにシンジは「何ものでもない」存在へと落とされた。これが絶望でなくて何なのか、と。

     しかし、たとえばペトロニウスさんはこれを「解放」であると捉えます。たしかにシンジは「主人公としての特権性」を喪失した。そのことにより、もはやシンジは世界によってスペシャルに選ばれた存在ではなくなってしまった。

     しかし、それが絶望を意味しているかといえば、そうではない。むしろ、「世界の主人公」という重責を背負わなくても済むようになったことは「解放」を意味するのであり、主人公でなくなったからといって即座に「何ものでもない」存在になるわけではないのだ、と。

     つまり、スペシャルな「何者か」というものの正体が何であるかといえば、それは「役割」であるに過ぎない。シンジは「たったひとり世界を救うことができる巨大ロボットのパイロット」という宿命的な役割の重さにいままで苦しんできた。しかし『Q』にいたってついにシンジはそこから解き放たれる。

     その時点でかれが特権性を失ったことはたしかであるが、代わりに得たものもある。それは何か。等身大の人間関係であり、「縁(えにし)」で結ばれた人々との絆である。その意味で『Q』はきわめてオープンな可能性に満ちた希望的な物語なのである、と。

     『Q』はシンジとカヲルの共依存的なクローズドな関係性というドリームを見せ、その破綻まで描いているという意味でたしかに「鬱展開」の物語ではあります。ある意味ではたしかにそれは旧作の「鬱展開」をもう一度くり返しているといえないこともない。

     しかし、それでいて作品全体は旧作とは決定的に違っている。なぜか。それは世界そのものがオープンな方向に舵を切っているからです。世界はもはや共依存の地獄に閉ざされているわけではなく、群像劇の方向へと開放されているのです。

     たしかにシンジとカヲルの関係性の破綻というそのイベントだけを見れば、そこにあるのは昔なつかしい狂い歪んだ人間関係なのだけれど、しかし、今回は「それではない」「その方向性は間違えている」ということははっきりと示されている。

     そして「より正しい」方向への「道」も示されている。それがシンジとアスカ、レイ(のクローン?)が歩み出すラストシーンです。ここで重要なのは、そこにあるものが「ふたり」の閉ざされた関係ではなく、「三人」という開かれた関係であることです。

     「ふたり」ではたがいをひたすらに見つめ合う歪んだ関係が生じえますが、「三人」はそれじたい小さな社会です。そこではシンジとカヲルという「ふたり」の関係のオルタナティヴとしての「三人」がここでは明確に志向されている、とペトロニウスさんやLDさんは読んでいるようです。

     したがって『Q』はいかに凄愴であっても、世界が滅びかけていても、基本的には明るい希望の物語なのです。だからこそ『Q』に対しては「物足りない」「いままでの『エヴァ』のような狂気が感じ取れない」といった声が集まりもしました。

     それでは「『エヴァンゲリオン』の狂気」とは何か? それは結局、関係性の歪みに起因する果てしない歪んだ展開の連鎖に集約されるものだったと思います。つまり、どこまで行っても開放されることなく、果てしなく暗黒の共依存に閉ざされた世界。どんなに努力しても健全な関係を築くことができず、大人として成熟していくこともできないアダルトチルドレンの箱庭。それがつまり『エヴァ』の「狂気」であったのでしょう。

     今回、「希望」を志向し、「王道の娯楽作品。エンターテインメント」へと向かっている『新劇場版』が、そうした「狂気」を失くしたように見えることはむしろ自然なことです。ある意味では「狂気」を克服しつつあるといってもいい。

     そこにあるものは、もはやひたすらに狂気と暗黒に淫する物語ではありません。もちろん、そうかといって急速に楽観的な空気に変わるはずもなく、暗黒と絶望はそこかしこにあるのだけれど、しかし、もはやそれに捕らわれて足を止めはしない、それが『新劇場版』なのです。

     旧作のような暗黒と狂気の物語に対して、明暗の物語とでもいばいいでしょうか。光と闇、希望と絶望、善意と悪意とが、縄のように分かちがたく編みこまれた物語世界。たとえば『ベルセルク』の「蝕」以降の物語にも似ているかもしれません。

     『ベルセルク』も、その暗黒と狂気がクライマックスに達する「蝕」のエピソードで、「抜けた」印象があります。それ以降の『ベルセルク』は、むろん甘い感傷にひたることを許さない厳しい展開ではあるにせよ、ひたすらにダークなだけではなくなりました。

     恐ろしい暗黒の展開を通して「しかし、そうはいっても世界は暗黒ばかりではない」「悪意と絶望だけでできているわけではない」という「悟り」にいたったようにも思えます。一方で『軍鶏』のようにいつまでも暗黒の展開ばかりが続き、その先が見えない物語もありますが、しかし基本的にはぼくは暗黒を抜けて「その先」へと至った物語が好きです。

     つまり、世界には二面性があり、そのいずれかに目を取られることはほんとうではないということです。世界は闇だけでできているわけではなく、もちろん光だけでできているわけでもない。悪夢のように残酷な一面があったかと思うと、限りなく甘い一面もある。それが世界。

     その真実を悟ったならば、もはや「他者」は恐怖ばかりを喚起する存在ではなく、喜びを生み出す存在ともなりえます。カヲルくんのように100%すべてを受けいれてくれるわけでもないけれど、そうかといって逆に100%拒絶されるわけでもない、自分の態度しだいで白とも黒とも見えてくるほんとうの意味での「他者」がそこに出現するのです。

     その後に出てくるものは「健全な等身大の人間関係の構築」というテーマでしょう。ようするに「友達をつくる」ということ。そのためには、自分から「最初の一歩」を踏み出す必要があります。

     この「一歩」がいちばんむずかしく、勇気がいることはたしかですが、しかし、その「一歩」さえ踏み出したなら、その先には善悪明暗いり混じる豊穣な世界が広がっています。『魔法先生ネギま!』で最後の最後に語られていたように「わずかな勇気が本当の魔法」なのです。

     少しだけ勇気を出して「最初の一歩」さえ踏み出せば、あとは転がるようにして展開が変わっていくこともありえる。それは『エヴァンゲリオン』旧作のような暗黒と絶望と狂気の展開に魅力を感じるひとにとってみれば、いかにも甘ったるい結論であるように見えるかもしれません。

     しかし、世界は一面ではたしかに甘いのです。決してひたすらに「気持ち悪い」と拒否を伝えてくるだけではない。それが、それこそがぼくたちの「希望」。巨大地震が起こっても、原子力発電所が爆発しても、なお連綿と続いてゆくぼくたちの日常を輝かせる希望です。

     続く『シン』は積極的にその希望を語る物語になるかもしれません。何も絶望する必要などない。世界は終わりなどしない。物語はいつまでも続いてゆく。ぼくもそう思い、そう信じ、次なる作品を待とうと思います。

     「絶望」から「希望」へ。「狂気」から「解放」へ。時代は劇的に変わっていく。次回作を楽しみにしましょう。それはきっと、ぼくたちが見たいと望んでいるものを見せてくれるはずなのですから。
     
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