ジャイアニズムDX (エンターブレインムック)


 数日前に発売された雑誌『ジャイアニズムDX』にペトロニウスさん(@Gaius_Petronius)の評論が掲載されていた。読んだ。面白い。いつもながらのペトロニウス節で、膨大な物語作品を引用しつつひとつのテーマを語り尽くしている。

 乱れ飛ぶ言葉の中核は「次なる世代の物語とはどういうものか」というテーマ、そして「脱英雄譚」というアイディアだ。数年前からブログ「物語三昧」(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/)を渉猟している読者は、かれが「次世代の物語」を模索してきたことを知っているだろう。多くのひとが「いま」に四苦八苦しているなかで、かれの目は「次」に向いている。

 同じテーマをくり返し突き詰めることで可能性の隘路を示した『新世紀エヴァンゲリオン』、大衆への絶望と希望を綴った『東のエデン』、ループ展開の最も洗練された形を生み出した『魔法少女まどか☆マギカ』、こういった過去の傑作たちを理論的に超克する新しい世代の物語とは何か、ペトロニウスさんはそこを見つめているようだ。

 この記事では、かれの思考を追いかけながらその説を検証することとしたい。なお、この「その一」の段階ではその論考をまとめることに終始していることをあらかじめお詫びしておく。続く「そのニ」「その三」では、そこにぼくなりの考察を付け加えて語りたいと考えている。

 さて、ペトロニウスさんは具体的にどのようなものとして「次世代の物語」を思い描いているのか。かれはアニメ化が決定した話題作『まおゆう魔王勇者』にその可能性を見る。この作品の構造が過去の物語が超えることができなかった限界を乗り越えているというのだ。

 橙乃ままれ『まおゆう』は、ある世界における「魔王」と「勇者」の出逢いから始まる。魔王は勇者を誘惑し、世界の現状を伝え、協力を求める。勇者はそれに応え、彼女と共闘して世界を革新しはじめる。めざす場所は「あの丘の向こう」。現在、延々とループしつづけている世界の限界を乗り越えることだ。

 「魔王と勇者の共闘」というアイディアそのものは特別オリジナルではない。それどころかきわめてスタンダードである。それ自体多くの粗をもつ『ドラゴンクエスト』型の「英雄譚」を再構築するこういったアイディアは、昔から無数に試みられてきた。

 『まおゆう』はそこからドラマティックに展開していくのだが、それについていま詳細に語ることはよそう。重要なのは、絶対的な「悪」を暴力でもって打倒することによって解決するという方法が早々に棄却されているということだ。

 ペトロニウスさんはここに「善悪二元論」の超克を見て取る。「善悪二元論」とは文字通りある人間を「善」と「悪」、「敵」と「味方」に分けて捉える思考法である。その世界観においては「善」はどこまでも「善」で、「悪」は果てしなく「悪」であるという前提のもとに、妥協なき殲滅戦が描き出される。

 しかし、善悪二元論の物語は、エンターテインメントの王道であり、素晴らしい感情移入を誘う構造であるにせよ、あまりにもくり返され飽きられているため、多くのクリエイターがこの構造の超克を目指している。

 超克。あるいは解体というべきか。そのための方法のひとつが、シンプルな二元論的世界を再構築し、三すくみの状況で複雑なかけ引きがくり広げられる物語、つまり『三国志』である。

 『グイン・サーガ』や『銀河英雄伝説』など『三国志』型の傑作は現代にも少なくない。漫画『幽☆遊☆白書』の終盤で、この「三極の物語」が一瞬火花のように示されたものの、あっというまに元の少年漫画のバトルトーナメントの構造に戻っていったことをご記憶の方も多いだろう。

 「三極の物語」は「二極の物語」にはない可能性が胚胎されている。なぜなら、「三極の物語」においてはある勢力が敵対者を「悪」と決め付け排除したなら、その瞬間に相手との同盟の可能性が消えさってしまい、戦略的に劣勢に追い込まれるからである。

 すべての勢力が常に複雑なバランス・オブ・パワーを検討しながら善悪を超えた戦略的な可能性を探しつづけることを求められるのが「三極の物語」の特性なのだ。しかし、善悪二元論を解体したところで、その先に待つものは行き場のない可能性の袋小路である。

 たとえば『ガンダムシリーズ』を見よ、とペトロニウスさんはいう。そこにあるものは「善もなく、悪もない」「ただ延々と続く殺しあいがあるだけ」という陰鬱な世界観である。そこには「ここまではまずい」という強烈な問題意識はあっても、それに対応する明快な解決法が存在しないのだ。

 ペトロニウスさんによると、そもそもこの問題の解決法をエンターテインメントで示すことは構造的にむずかしい。なぜなら、ひとは「敵を倒し、仲間を守る」という善悪の基準を前提とした限定的な思考に慣れきっているからだ。

 善悪を相対化しつくし、ある勢力に感情移入し切らせないスタイルの物語は、一作のエンターテインメントとして「面白くない」。そしてまた、現状の国際社会が『三国志』的な(ただしより複雑な)バランス・オブ・パワーによって維持されていることを考えるなら、この構造を超える構造を描き出すことが困難であることは自明だろう。

 もちろん、純粋にSF的な意味での解決策は想定できる。俗に「ファーストガンダム」と呼ばれる初代『機動戦士ガンダム』では「ニュータイプ」という新人類の誕生が示唆されていた。ニュータイプは現状の人類を超越した存在であり、争いをやめることができない人間社会を革新することができると宣言されていた。

 しかし『ガンダムサーガ』が続くうちにわかってきたことは、少々のニュータイプが生まれたところで社会を根本的に改革することはできないということである。なぜなら社会は絶対多数のオールドタイプから構成されており、少々、超能力者めいたニュータイプがいたところで何も変わりはしないのだ。

 劇場映画『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』においては、そのことに絶望したシャア・アズナブルが、地球を破滅に追い込む大規模なテロを試みる。こうすることでしか人類は変えられないという痛いような絶望。それに対し、アムロ・レイはその行為を阻止し、「次なる人類」に希望を託すのだが、ここでもやはり「具体的な現状の解決策」は見つけられていない。問題は次の世代に先送りされただけなのだ。

 あるいは『ガンダムサーガ』をメタ的に眺めるなら、まさにその「解決策がない同じことのくり返し」が「リアル」であり「真摯に現実を見つめている」と解釈されることで、評価が高まってきたという側面はあるかもしれない。とはいえ、いつまで経っても「ひとは戦争をやめることができない」とくり返し嘆くばかりでは、進歩がないとため息をつかれても仕方ないだろう。

 ペトロニウスさんによると、最近の『機動戦士ガンダム00』では、延々と続いた戦いの果てに、ついに世界を統一する「地球連邦政府」が誕生したことで、「バランス・オブ・パワーの物語」から一歩前進しているように見える。

 しかし、そこで「敵」がいなくなったことによって、今度は宇宙の向こう側からエイリアンという「敵」がやって来ることになる。結局は同じことを形を変えてくり返しているだけだということもできるだろう。

 このような例を見ていると「善悪二元論」を解体することがその最終的な超克の形ではありえないことがわかる。つまり二元論を解体するところまではだれでも思いつくし、だれにでもできる。しかし、解体したその先にあるものは、やはりもうひとつの袋小路なのである。

 この袋小路を打破してゆくこと、それが「次なる世代」に課せられた使命であるといえるかもしれない。しかし、長いあいだ「善悪二元論を超越した構造をエンターテインメントの形で描くこと」に成功した作品はあらわれてこなかった。

 それくらいむずかしい問題なのだということもできる。「善悪を解体すること」と「エンターテインメントであること」はある種、矛盾したところがあると見ることも可能だろう。

 そこで『まおゆう』はどのようにしてこの構造的問題を打破していったのか。次回以降では、ペトロニウスさんの論考に沿うかたちでそのプロセスを見ていくことにしたい。果たして『まおゆう』がほんとうに「次世代の物語」と呼ぶにふさわしい作品であるのか、そこであきらかになってくるだろう。

 以下次回!