ガン病棟のピーターラビット (ポプラ文庫)

 あいかわらず石田衣良『余命1年のスタリオン』を読んでいる。原稿用紙にして1000枚は超えそうな長編だから、そう簡単には読み終わらない。

 何時間にもわたって物語に埋没し、ひたすら文字を追いつづける作業は、いつものことながら至福というしかない。いまさらながらにぼくは読書が好きなのだな、と思い出す。

 音楽であれ、スポーツであれ、何か好きなものがあるということは幸運なことだ。それだけでひとは十分に幸せになれる。

 ぼくの場合は、とりあえず本さえあればそれで満足だ。最高に面白い本ならいうことはないが、「それなり」のものでもそこそこ幸せでいられる。とにかく読むこと、書くことが好きで、ほかのものはあまり必要としていないのだ。

 地味な幸福かもしれない。何か社会的に大成功したり、相思相愛の美貌の恋人がいたりしなければ幸せになれないひとに比べれば、ぼくの幸せはかなり閾値が低い。

 ぼくには野心とか大望らしきものがないから、そういうものを求めてやまないひとに比べればつまらない人生といえなくもない。しかし、ぼくはこの人生でそれなりに充足している。

 物語を読むとき、ぼくは「ぼく」というフレームから解放されてだれかほかの人間になる。『余命1年のスタリオン』の場合、末期がんのイケメン俳優になって、最後の1年を生きることになるのだ。

 「自分」という限界を超えて、だれかほかのひとの視点から世界を眺める。これがぼくにとっては最高の幸福だ。そこには色々な「気づき」があり、発見がある。

 余命1年の視点で世界を眺めてみると気づかされるのは、ひとが何か重要なことのように思い込んで、こだわっていることなどほとんどどうでもいいことであるということだ。

 あと何年も生きられないのに、つまらない恨みや妬みに囚われていたいひとがいるだろうか。ひとはもう長くは生きられないというときになって初めてほんとうに大切なものに気づく。

 何が最も大切なのか、それはひとによって異なっているだろう。『余命1年のスタリオン』の主人公の場合、それは演技であり、映画だった。

 あなたにとっては何だろうか。ぜひ、余命いくばくもなくなったつもりで考えてみてほしい。ひとはだれもが永遠に生きられるわけではない。ある意味では、目に見えないだけで、いまも余命のカウントダウンは続いているのだ。

 ひとはほんとうはただ生きているだけで幸福を感じられる生き物なのだと思う。その幸福を阻むのは、「あたりまえ」という言葉だ。何かに慣れ、あたりまえだと思ってしまった瞬間、そこから得られる幸福はゼロになる。

 陳腐な言い草かもしれないが、ほんとうはこの世に何ひとつあたりまえのものなどない。世界のすべてはそれぞれがかけがえのない奇跡なのだ。