カラー図解 骨のしくみ・はたらき事典

 うにー(挨拶)。正月の気だるい空気に浸り切っている海燕です。きょうは真面目な記事を何本か上げたのでもう十分に仕事をした気分。ほんとうならここで打ち切ってかまわないのですが、もう少し書きたいので思うまま書き綴ることにします。

 思うままとはいっても、実はわりあい丹念に推敲しながら書いています。それでこの出来かといわれると返す言葉もありませんが、まあ推敲しなければもっとひどい品質になったでしょう。

 もし上手に文章を書きたいと思うなら、推敲に時間を割くことです。一切の推敲も修正もなくいっきに書きあげる作家の話はよく聞きますが、それはしょせん天才の話。ぼくたち能なしの凡人はああでもないこうでもないと知恵を絞るよりありません。

 そしてそのような努力を続ければ、技術は確実に向上します。ぼくの文章も十年前に比べればだいぶ読めるようになっているはず。十年前書いたもののひどさと来たら、顔をしかめるだけでは済まないくらい。この程度の駄文でもだいぶ上手くなっているんですよ! おそらく、十年後に読めば救いようがない悪文と思うことでしょうが。

 しかし、そもそも文章の上手下手とは何なのか、実に微妙な問題です。あるひとは谷崎潤一郎が好きで、あるひとは江國香織が好き、またあるひとは桜庭一樹に惹かれるというふうに、ひとそれぞれ好みがあり、何かひとつを選んで理想とはできない。

 もちろん名文美文と持て囃される文章はある。しかし、しょせん好みの壁を超えはしません。科学的に判定できるような問題ではないのです。それなら各人が好きなように書けばいいようなものですが、それでもやはり上手い文章と下手な文章は厳然と存在していて、ぼくは少しでも上手くなりたいと願わずにはいられない。だから因果に試行錯誤をくり返すわけです。

 ただ、そうやって考えつづけていると、いくらかはわかってくることがあります。たとえば文章は装飾より骨格が大切ということ。多分に感覚的な物いいで、どこまでを骨格としどこからを装飾とするかはっきりしないのですが、とにかく飾りにこだわるより骨をしっかり組み立てることに尽力したほうがいい。骨格がしっかりしていなければどんな装飾も意味を成さないからです。