アラタカンガタリ~革神語~ 1 (少年サンデーコミックス)

 『少年サンデー』で田部イエロウの新連載が始まっています。『ハヤテのごとく!』が例によって女装している一方で、『アラタカンガタリ』が性転換ネタやっているのが気になったりもしますが(可愛い)、新連載の話!

 タイトルは『バードメン』。第1話、第2話の連続掲載です。しかし、その2話と使っても話はほとんど進んでいません。ひたすら主人公の日常の倦怠感が綴られるばかり。

 ちょっと『DEATH NOTE』の冒頭で夜神月が平凡な生活に退屈していたことを思い起こさせますが、『バードメン』の描写ははるかに執拗です。丸々2話を使っていかに主人公の人生に希望がないかを描くだけ。

 ある意味では何ひとつおもしろいことが起こらない漫画なのですが、しかしその描写はきわめてリアルで胸に迫るものがあります。

 はてしなく続く日常の退屈。どこまで行っても出口のない日々への失望。それはほかならない「自分自身」への絶望といってもいいでしょう。

 まあ、ずいぶんと色々な娯楽があふれる昨今ですが、おおもとの「自分」がどうにもならないことには何も変わらないでしょう。

 これはたとえ異世界から女の子が降ってきても変わらない絶望なのだと思います。すべての根源となる「自分自身」に見切りをつけてしまっていることが問題なのですから、

 何ひとつ才能もない、能力もない、意欲もない空っぽの自分。「きっと何者にもなれない」空洞の存在。それに気づいてしまった時点で、人生はどうしようもなく灰色になっていきます。

 すべての行動の根幹をなすモチベーションの欠落。そもそも特にほしいものもないんですよね。これといった欲望も動機もない。何かしたいとか、こうなりたいという野心がないのです。

 あるいはそれは広い世界を知らないからで、知ったならもっと何かがほしくなるのかもしれないけれど、その広い世界を知るためには行動が必要で、そして行動するための気力がない。

 止まった車輪のむなしさ。倦怠感ばかりが募っていきます。正体不明のピングドラムを探す気にもなれない。結局のところ、車輪をこぐ意欲そのものが壊れているのだから、社会や家族のせいにしたところで無意味。何ひとつどうにかなるはずもありません。

 もし自分に何か「才能」があったら。そうでなくても特別な「能力」があったなら。この閉塞した生き方も変わってくるのだろうか。そんな埒もない考えに浸っている時点で、「才能」や「能力」とは縁がないということなのでしょう。

 その一方で、この世界を目いっぱいに楽しんでいる(ように見える)人々も存在します。自分とかれらの違いは何なのか? 考えずにいられません。

 やはり、何かしらの「才能」や「天性」の差なのか? それとももっと根本的なところで原因があるのか? 「人格」や「性格」の話なのだろうか? どこまで考えても堂々巡り。

 おそらく必要なのは、「何でもいいから行動してみること」。しかし、そのための「初めの一歩」を踏み出す勇気もなく、だから日常は何も変わらないまま続いていきます。

 そしてしだいしだいに灰色の世界は暗黒へと変わり、退屈ではあるが平穏だったはずの世界は苦痛に満ちた場所へと変化していくのです。どうすればこの暗い世界を突破できるのか?

 その答えのひとつがたとえば漫画『自殺島』にあります。つまり、生きることに必死にならざるをえない場所に叩きこまれれば、もはや「何のために生きるのか?」などという贅沢な悩みに夢中になる余裕はなくなる。

 必然、「生き甲斐」を見つけたのと同じ状態になる。原始のバトルロイヤルのなかでは、無条件に生きることを選べない者は、ただ死んでいくばかりなのです。