弱いなら弱いままで。
だから、物語は全然わからない。かろうじて、母と娘の一人称が交互に記されていることがわかるくらい。あと、恋愛小説であることと。
ふだんはこういう女性向けの恋愛小説を読むことはほとんどない。ぼくが読むものといえば、SFや推理小説や冒険小説ばかりだ。しかし、江國香織の言葉づかいは好きなので、こうして買ってきて、「眺める」わけだ。読書ならぬ眺書である。
べつだん江國の作品に波瀾万丈は求めていないので、これでも十分、もとを取れる。江國の文章はとにかく綺麗で、繊細で、眺めているとほうっとため息がもれる。もう、ページをひらいた瞬間に美しさがわかる。
しかし、このひとは長編より短編のほうがいいな、などと思ったりする。彼女の綴る物語には特に興味を抱けないからだ。それならひたすらに切れ味鋭く、あと味涼やかであるほうがいい。もちろん、一読者(ともいえない者)のわがままな「感想」に過ぎない。
ところで、恋愛ものというと、こちらは大いに耽溺したゲーム『ホワイトアルバム2』が思い浮かぶ。ここ数年でぼくが読んだり観たりしたラブストーリーのなかでも最高の傑作である。
この作品についてはしばらくまえにペトロニウスさんたちとラジオで話して、いくらか思うところがあった。つまりは、この話は「ヘテロセクシュアル(異性愛)」と「モノガミー(単婚)」、さらには舞台が日本という条件がそろって初めて成り立つ傑作だということである。
この条件がひとつでも狂うと、簡単に破綻してしまうのだ。否、「破綻」という表現は的確ではない。登場人物たちがかれらを縛る桎梏から「解放」されてしまうというべきだろう。
この場合の桎梏とは何か。それは春希、雪菜、かずさの三角関係である。『ホワイトアルバム2』は、高校時代に出逢い、それぞれ恋に落ちた三人の若者が、大学、社会人と進んだあとにその想いに翻弄される物語だ。
ここで春希はかずさにつよく惹かれながらも、雪菜と離れることもできずに苦しむ。しかし、少し視点を変えてみると、この一見どうしようもないようにみえる状況はあっさり解決してしまう。
ぼく自身はその三角関係の閉塞感が好きでならなず、きりきりと胸を締め付けられるような切なさに溺れたひとりなのだが、三人のうちのだれかひとりが、「三人でいっしょに暮らす」ことを提案したなら、そしてほかのふたりが受け入れたなら、このシチュエーションは意味をなくしてしまうのである。
これはゲーム的な「ハーレムエンド」というよりは、ヘテロセクシュアルやモノガミーの限界を超越した「第三の解」だと考えたい。
「一対一の異性愛」という限界のなかでは答えを見いだすことができない問題が、その条件を外せばあたりまえのように解決しまうことはおもしろい。
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