イノセンス オリジナル・サウンドトラック

 やっぱり一本の記事の文字数が少ないとめちゃくちゃ楽だな……。

 そのぶんネタを消費するわけだけれど、ひとつの選択肢として短い記事はありかもしれない。

 そればかりだと読みごたえがないブロマガになってしまうかもしれませんが、時々、長い記事を混ぜればいいんですしね。

 通常は1000文字~1500文字くらいで、時々もう少し長い記事や、1本8000文字~10000文字程度の長文記事を混ぜるというのもいいかもしれません。

 同じくらいの文字数にそろえないといけないという強迫観念のせいでブロマガの幅が狭くなっていたというところはあるかもしれないですね。

 まあ、ブロマガの場合、どうしてもメールで受け取る方がいるということに配慮しないわけには行きません。

 1日おいてメールボックスを開いたら「ゆるオタ残念教養講座」からのメールが十数通も届いていたというのは、ちょっと辛いものがあるシチュエーションですから。

 ただ、おそらくメールボックスを分けて受け取っているひとも多いでしょうから、実はそこらへんはそれほど意識する必要がないのかもしれません。

 こういうのは頭のなかで固定観念を組み立ててしまうと大抵うまくいかないのです。

 自縄自縛という言葉がありますが、まさに自分を縄で縛ってしまって、一定の限界のなかに閉じ込めることになりかねない。

 そう、ひとが頭のなかで組み立てた「真実」と、客観的な「事実」とは、しばしば食い違うものなのです。

 自分にとって真実と思えることでも、客観的に見て正しいとは限らない。

 この場合で云えば、「毎日来るメールが多すぎて迷惑に思って購読をやめてしまう読者」は、実は存在しないのかもしれないということ。

 この「真実」と「事実」のズレは、いつもチェックして修正するようにしないと、いつのまにか自分の頭のなかだけですべてを処理して、偏見の塊のような人間になってしまいます。

 そこまで行かなくても、ほんとうは可能なことを不可能だと思ってしまう可能性は高い。

 押井守の映画ではありませんが、ひとはある意味では決して「現実」を認識できないものなのでしょう。

 しかし、だからといってより正しい現実を見ようという努力を放棄してしまうわけにも行かない。

 少しでもリアルな世界を見ようとしつづけなければ、ひとはあっというまにナルシシズムに囚われて、自分の意見の残響だけを聞くことになるのです。

 とはいえ、それならひとの意見を聞いていればいいのかというと、それはそれで他人に動かされるつまらない人間になり下がるだけなんですけれどね。

 他人は他人で、そのひとの思い込みに囚われているわけだし。

 さて、この場合、どうすることが正解なのでしょう? 結局、トライアル&エラーをしてみるしかありません。試してみないことには、何が正しいのかわからないのです。