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さて、今月号の『アフタヌーン』における『ヴィンランド・サガ』では、ついに大いなる夢に目覚めた主人公トルフィンが一方的に殴られつづけるも、無抵抗で耐え、周囲の男たちから「本物の戦士」として認められるという展開が描かれます。
先月号で見たときから予想していましたが、やっぱりそういう展開になるんだなあ、という感じですね。
でも、これ、無理があるんじゃないか、という思いをどうしてもぬぐい去ることができません。
いや、いくらなんでも100発も殴られつづけたら死ぬか倒れるかするでしょう。
いくらトルフィンに殴られる技術があると云っても、限界がある。100発続けて殴られてもまだ意識を残しているって、それはもうある種の怪物ですよ。
これまできわめて盛り上がっていただけに、急に物語のリアリティがなくなってしまった印象は消せません。
ただ、これはもう、必然だと思うんですよね。トルフィンは「もうこれ以上だれひとり傷つけない」「自分には敵などひとりもいない」と誓ったわけで、つまりあらゆる攻撃方法を自ら封印したことになる。
となると、ひたすら無抵抗で殴られつづけるしか採れる手段がない。
その上でなお、「本物の戦士」の力を示すためには100発とか続けて殴られることに耐えられることを示すよりほかない。
まあ、ロジカルにできている展開ではあります。
でも、やっぱりこれは無理ですよね。どう考えても無理でしょう。こんなやり方を続けていたら、どこかで殺されて終わるはず。
ガンジーの非暴力運動が意味を持ちえたのはそれが20世紀だったからで、あの時代に非暴力を貫こうとしたらだれかにあっさり殺されておしまい、ではないでしょうか。
このトルフィンの気高い理想と無力な行動の落差は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の葉山が、だれも傷つけない解決方法しか採れないためにじっさいには何もできないことと似ています。
もちろん、このトルフィンの態度は戦争を起こし、人々を殺しながらも理想を実現させていこうとするクヌート王の姿勢と対比されています。
それは『プラネテス』で、ハチマキとウェルナー・ロックスミスが対比されていたのと同じことでしょう。
どうやら幸村誠さんはこのような形で「理想」と「現実」を対比させる作家であるようです。
しかしはやはりぼくはこの描写に無理を感じてしまうのです。「愛しあうことだけはやめられないんだ」というハチマキの宣言がいかにも空虚に響いたように、トルフィンの行動にはどうしようもなく痛々しさがある。
いや、無理でしょ、これ。これが通るのだったらだれも苦労はしないわけで、通らないから暴力が必要になってくるわけです。
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要するに「幸村誠の出すアンサーが気にいらねー」ってだけに見えちゃうんですが。プラネテスは星野親子とロックスミスの、ヴィンランド・サガはトルフィンとクヌートの対比を考えれば明瞭な、納得のいく答えが出てると思うんですがね。それ以上は単なる好き嫌いの問題に過ぎないのでは? ただ「嫌い」と言うだけなら別にいいんですが、論拠もなくただ「空虚」と断罪するのは評論家としてマナー違反な気がします。
しつこいですが、もう少し。トルフィンの百人殴られ組み手が非常識なら、トルケルの不死身っぷりはそれ以上に非常識なファンタジーですよ。それにハチがロックスミスを否定しなかったように、トルフィンもクヌートを否定することはないんじゃないでしょうか。おっしゃる通り、「世界を変える」にあたっては後者の方が現実的ですから。ただハチもトルフィンも、世界を変えることが目的じゃないのは明白ですけどね。海燕さんは常々これを主眼に置いた視点で批評しておられますが、彼らは身近な人々との愛のために生きることを決断した人間だと思われるので、上のような批判はそもそもお門ちがいではないでしょうか。マザーテレサに「お前は無力だ」っつってるようなもんですよ。