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たとえば、住田君は、釣り堀を営んで生きていますが、、、、まぁこれで確かに日本の中産階級の生活を維持するのはできないでしょうが、生きていくのはできると思うんですよ。何も心を壊して、アパシー気味に生きなくても、楽しいことはいくらでもある。日本の中産階級が描くような、いい大学いって、いい会社いって、結婚して子供と一戸建ての家に住んで、とかそんなもうねえよーというような希少価値の高い無理目なロールの関係性を至上とするのはやめて、壊れたままでいいじゃないか、人間どんなに這いつくばっても、ご飯と睡眠があれば意外に強度ある幸せは生きられるはずなのに、なんでそんな「手に入らない幻想・妄想」に固執するの?ってことです。
ですよねー、と。
つまり、幻想としての「リア充」に固執するからこそルサンチマンに捕らわれ、ひとを妬んだり恨んだり辛い思いをしなければならないのだ。
そうではなく、かけがえのない「いま」を充足して生きることが人間には大切なのだと思う。
もちろん、「生きるか、死ぬか」という極限的貧困のなかでは「幸せ」を手に入れることは相当にむずかしいだろう。
しかし、一定レベルの生活水準を維持することができれば、あとは彼女がいなくても子供を持てなくても、けっこう楽しく生きていくことはできるはずだ。
平均と比べていくらか貧しいひとが不幸なのは、貧しさそのものが辛いというよりは、ペトロニウスさんが云うところの「比較級の世界」に住んでいるからではないだろうか。
つまりは、ひとと比較して自分は劣っているとみじめになるからだ。じっさいリア充には程遠い貧乏生活を送っているぼくはそう思う。
島田裕巳『プア充』という本がある。「リア充」ならぬ「プア(貧乏)充」の道を奨める本で、年収300万円あれば十分だということが書かれている。
さほど目新しい思想ではない。この手の「清貧の思想」は昔からある。
この本がおもしろいのは、そういう道徳観念的な話としてプアを奨めているのではなく、実践的、現実的な作法としてのプアを推していることだ。
じっさい、年収300万円という数字にもそれなりに意味がある。必ずしも「武士は食わねど高楊枝」を奨めているわけではないのだ。
「金などなくていい」と云うのならいかにも胡散臭い。チャップリンではないが、「人生に必要なものは勇気と想像力と少々のお金」である。
しかし、「一定の収入さえあればいい。必ずしも高収入は必要がない」ということなら、それなりの説得力があるのではないか。
ぼくたちは昔から「モノより心の豊かさ」式の陳腐な説教をたくさん耳にしてきた。「プア充」はそれらとは違うのだろうか?
違う。この概念は「モノなんてどうでもいい。心の豊かだけで十分」と主張するものではない。そうではなく「モノの豊かさは一定水準で十分。無限に追求する必要はない」と云っているのだ。
これはかなり大きな違いだと思う。その「一定の収入」というものを著者は年収300万円代に設定するわけだが、それで満足できるかどうかはひとそれぞれだろう。
ただ、ひたすらお金儲けにはげむ一方でそのストレスを消費に回すような生活は不健康だとは思う。
あるいは経済的動物としてはそれで日本経済(ひいては世界経済)に貢献しているのかもしれないが、一個人としてはあまりしあわせそうに思えない。
個人的に必ずしも共感できない箇所もあるのだが(結婚して子供を作ったほうがいいとか)、良書だと思う。リアルプアのぼくは大いに勇気づけられた。これからも貧乏生活を充実させていきたいと思う。
Phaさんの『ニートの歩き方』などを読んでも思うのだが、
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