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相変わらず淡々と「小説家になろう」を読み進めています。『Re:ゼロから始める異世界生活』、『異世界迷宮の最深部を目指そう』、『やり直してもサッカー小僧』あたりをひたすら読み進んでいのですが、なかなか終わらない!
それはそうで、合わせて400万文字以上あるのです。本に直したら3、40冊くらいかな。それほど簡単に読み終えられるはずがありません。
まあ、何しろ読みやすいのでこの程度の量なら読めないわけではないのだけれど、何だろうな、いくら読んでも読んだ!という実感がないのが辛いところ。
紙の本、あるいは電子書籍であっても、一冊ごとに区切りが存在するので、その単位で「読了」のカタルシスを得られるのだけれど、「なろう」では一作読み終わるまでそれがないんですよね。
だから、膨大な量を読み進めたとしても、何か読んだ気がしないんだな。もちろん一作読み終えてしまえばそのカタルシスは大きいのでしょうが――。
それにしても、いくつかなろう小説を読み進めていくと、物語の本質について考えさせられます。
なろうとは、あらゆる願いが叶う願望充足の宇宙。そこには倫理的な制約はほとんどありません。
紙の本として世に問うものであれば、たとえライトノベルであっても、それなりに政治的に公正な内容であることを求められるでしょうが、なろうにはそういう制約が一切、ない。
だから、欲望をストレートに叶えるだけの作品が山積している。そういうシロモノは文学的に見ればまったく無価値でしょうが、ある意味、物語の本質に近いところにあると思える。
本来、物語とは、語る者の願いを叶えるドラゴンボールみたいなものだと思うんですよ。物語のなかではどんな夢も、願い事も叶う。いかなる恋も、野望も、欲望も、思いのまま。そこには本来、いかなる制約もないのです。
しかし、ひと目に晒されれば、当然、「それはまずいんじゃないの」というツッコミも入るし、より洗練されたものに変化してゆく傾向がある。
じっさい、いま、プロフェッショナルによる作品にはそこまで下品な願望充足ものは多くない。しかし、なろうではほとんどそういう倫理的な批判が存在せず、未だに願望充足が根付いている。だからこそ、なろうにはプリミティヴなエネルギーがあふれている。
それを「精神のポルノ」と呼ぶひともいます。
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家畜人ヤプーはごくごく一部の人間の欲望を下品に充足させるプロフェッショナルな小説だった。と、そんなふうにポルノは下品だよね、という当たり前のことと家畜人ヤプーのようなものが「なろう」では稀だと思う(ぼくは見たことがない)こと。
そのあたり吟味すると「なろう」にあるのは煮えたぎったマグマというよりは、永遠に成熟しない幼さ――読む人も書く人も入れ替わり立ち代りで、年齢層としては妥当なところで落ちついてるんじゃないかっていう感触――で、それはたしかに物語の源流かもしれないけれど、はたしてその物語の卵は孵化するのだろうか。
いつまでも卵なんじゃないか。そして、それでこそ「なろう」だというふうに思う。鶏肉と玉子と、どっちが美味いかなんていう議論があっても、結論は出せないのと同じで。