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この記事は「インターネットはあなたの人生のすべてじゃない。」というタイトルです。
このタイトルを、「何をあたりまえのことを云っているんだ」「そうに決まっているじゃないか」と思うひとにとっては、この記事は不要です。いますぐブラウザのタグを閉じてしまってかまいません。
しかし、この言葉をすぐに首肯しかねる人は、以下の文章を読んでみてもいいかもしれません。
ぼくがネットに入りびたり始めて十数年になるのですが、その間にネットは大きな変貌を遂げました。リアルタイムウェブと呼ばれるハイスピードなシステムが整備され、スマートフォンが生まれ、まさに24時間ネットに耽溺することが可能となっています。
その危険性を指摘する識者は枚挙に暇がありませんが、それでもこの流れが止まることはありません。ぼくのような廃人はネットに深く溺れる一方です。
いまやネットは生活の一部であることをやめ、そのほとんどすべてに深く根を下ろしているようにすら思えます。ぼくの友人関係のほとんどはネットを通じて得たものです。
ネットこそすべて。そうでしょうか? もちろん、そんなはずはありません。それは危険な錯覚です。ネットは広大な現実世界の一部であるに過ぎず、そしておそらく最も重要な一部ですらないのです。
たしかにぼくたちはネットを通じて色々なひとと通じることができます。それはぼくたちの生活を非常に豊かに変えました。
いままでだったら知りあいようがなかった人物と知りあえる! それはネットの大きな意味です。しかし、一方で、ネットにはあきらかな限界がある。
それはネットがヴァーチャルだということではありません。ネットはあからさまにリアルの一部です。だから、ネットの限界とは、「一部であるに過ぎない」ということだと考えるべきでしょう。
ネットでいくら活躍していても、それで勉強ができるわけではないし、仕事がはかどるわけでもない。その反対に、ネットでものすごく炎上して、叩かれていても、それで人生そのものが壊れるということは、まずめったにない。
ネットはあたかも幻想の浮遊都市であるかに過ぎないかのようです。
それはたしかに、ぼくのようにネットで収入を得られるようになったり、あるいは露骨に罪を犯したりしたらべつですが、やはりいまなおほんとうに重要なのはネットの外の物理現実世界のほうでしょう。
ぼくたちは物理現実で食べ、話し、学び、働き、眠り、生きている。生活のほとんどはいまなお物理現実の方にあって、ネットにはないのです。
いつかはヴァーチャルリアリティの発達によってそれが変わる日も来るかもしれませんが、とりあえずいまのところ、それは夢のまた夢に過ぎません。だから、ネットはぼくたちの人生にとって限定的な意味しか持たない。
もちろん、ネットは物理現実を豊かにする「きっかけ」にはなりえます。たとえば、ネットで知り合ったひとと物理現実で逢って友人となり、その後もネットで交流を続けるといったことがそれにあたります。
しかし、ネットだけで生活しつづけることは、いまのところはかぎりなく不可能に近いわけです。これは、ネットでいくら傍若無人に振る舞っても、物理現実では無力だということがありえることを意味します。
ネットにはある種の魔法があって、ここでなら、物理現実での格差や階級は表面的に無化されます。だから、物理現実で不遇の人も、ネットでなら奔放に振る舞うことができる。
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