裕時悠示のライトノベル『俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる』を読んでいます。まあ、おおむねタイトル通りの話で、ひとりの鈍感主人公を巡って複数の女の子が対立するというお話。

 いってしまえば他愛ないラブコメなのですが、異様に読みやすく、ストレスなく読み進めることができます。まさにライトノベル。ライトノベルかくあるべし、という規範のような作品です。

 ぼくは以前、たまたまアニメの最終話を観たことがあるのですが、それはちょっと苦笑いものの内容でした。

 とはいえ、アニメはあくまでアニメスタッフの責任で作られているわけで、その展開がどうであれ、原作には関係ありません。さすがヒットしているだけあって、この小説版は十分に面白い。

 最前も述べたように、お話そのものはそう大したものではありません。ありふれたハーレムラブコメ、とひと言で切り捨てられそうな感じです。

 しかし、作家はおそらくそれを完全に承知した上で書いている。その自覚こそが、この作品を埋もれさせず、アニメ化まで持っていった原動力になっているのではないでしょうか。

 つまりは、読者が求めているものはこれである、という確信をもって書かれているということです。そういう意味では、まったくもってプロフェッショナルな作品ということができるでしょう。

 そして何より、この読みやすさ! これは作家の文章力の賜物ですね。良い文章とは何か? それ長い間、延々と議論されている問題で、とてもぼくがどうこういえることではありませんが、少なくとも「読みやすい文章」は存在するでしょう。

 ほかの文章と比較して、相対的に可読性(リーダビリティ)が高い文章。ライトノベルでは、殊にそういう文体が要求されるように思えます。

 それでは、どうすればそういった文章が書けるのか? だれでもすぐに思いつくのが、晦渋な表現を減らすことです。晦渋という言葉そのものがそれなりに晦渋ですね。