ふたつ前の記事を書いたあと、この内容をマッチョに「だから努力しろ!」と主張しているのだと受け取られると困るなーと思ったので補足しておきます。
 
 いや、そもそもタイトルの時点でその可能性は否定しているんですけれどね。ひとはどう読むかわからないからね。

 ぼくがこの記事でいいたいのは、「どんなに努力したって無駄かもしれない」ということです。これは「才能」がない人だけがそうだというのではなく、だれだってそうなのです。努力は報われない――まあ大抵の場合は。

 しかし、だからといってほんとうに何も努力しないと、人生はあっというまに没落するので、報われなくても良いと思えることに注力すべきだ、というのがペトロニウスさんの意見だとぼくは解釈しました。

 報われなくても良いと思えることとは、つまり「好きなこと」ですね。何かに努力を費やすということは、つまりは自分の時間、生活、人生そのものをチップにしたギャンブルです。

 で、このチップを何に賭けるかを選ぶ際、どういう基準で選べばいいか。それは勝率が高いか低いか(「才能」があるかどうか)で選ぶのではなく、それを好きかどうかで決めるべきだ、とペトロニウスさんは主張しています。この箇所ね。

 けれども、社会人になってからは、そんなの「何が正しいかわからない偶然の世界」で生きてサバイバルしなきゃいけないので、自分にできること、続けられることで努力しないと、努力ってものすごく苦しい地獄になってしまうじゃない? ちなみに、努力なんかしちゃだめだよーって、ことあげであって、その逆が楽をできるってのでは全くないんだよね。勘違いされると、凄い困るんだけど。人生が豊かでリアルな充実に満ちるためには、同様の苦しさや厳しさを体感していなければいけないんだよ。そんなの、当たり前だっちゅーの。ただ、それは自分が内発性が担保できる、結果がなくともいいことがなくても、やっているだけで楽しいものを探していかなければならッていこと。またここもことあげだけど、最初から楽しいだけなんてこともないからね。「繰り返すこと」「量をこなすこと」で異様な量の体験による刻苦によって、基礎土台って出来上がって、そこから本当のことが始まるんだよね。楽しいことを探そう!なんて、バカな行為はしちゃだめですよ。本当に楽しいのって、自分の中に体験を積み上げた先に来るものだから、そんな「端的に楽しいもの」なんてものはこの世界にはないからね。

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131225/p1

 この「努力」という言葉も微妙な言葉で、ここでいう「努力」とは必ずしも「苦しさに耐えること」ではありません。むしろ、続けても苦しくないことを選んだほうがいいんじゃね?といっているわけです。

 そもそも「努力」と「成功(目標の達成)」は因果関係がないわけだから、苦しい努力をしていたらそりゃ人生が地獄になっちゃいますよ、ということですね。

 ここまではまあわかりやすいんだけれど、ここから先はさて、どのくらいの人に理解されているんだろう。

 べつに「おれはわかるけれど、皆はわからないんじゃない?」といいたいわけじゃなく、ある程度、ペトロニウスさんが普段から語っていることを踏まえて読まないとわかりづらいと思うんだよなー。

 意外とちゃんと理解されたりしているのだろうか。うーむ。ここでペトロニウスさんは時代背景の話を持ちだしているんですよね。

 かれによると、わが日本は、かつて長い「成長の近代」ともいえる時代を過ぎて来ました。高度経済成長時代です。そこでは、長期間に渡って経済的な成長が続いたので、「がんばれば成功できる」という幻想が成立しました。

 ほんとうは「がんばる」と「成功」の間に因果関係はなく、ただ時代背景がそういう時代だったから多くの人が経済的に成功する(所得を増やす)ことができただけなのですが、とにかく幻想は成り立ったわけです。

 ちなみにこの幻想は「成功できていないということは、がんばっていないのだ」と転倒しやすいと思うのですが、それはさておき、この「成長の時代」はバブルを最後に終わりました。

 社会全体が低成長時代に入るのです。この時代においては、高齢層が既得権益を手放さないので、若者は雇用も収入もない状況に置かれ、社会の流動性は下がります。社会全体が未来への「希望」がない時代に突入するわけです。

 しかし、その希望とは、あくまで「成長」をよしとする価値観に持ち付く「希望」に過ぎないのだ、とペトロニウスさんは喝破しています。

 もう一つは、低成長で、先進国の圧倒的な財政難が基本的になった世界では、、、、まぁEUができるまでの(今でも変わらないかぁ)ヨーロッパ病の世界なんだけど、そもそも若年層が就職できないのは基本的に常識なわけ。若年層の失業率だけが突出しているのが。熟年労働者とか既得権益者が、そこを手放すはずがないの。社会の流動性は下がるのが普通なの。成長がない社会では。なので、失われた20年ぐらいの間の部分は、高度成長期との「落差」で話題になったけれども、今後は、我々の社会の常識として、あーーーそんなの普通だよねーーとコモンセンスになって行くと思うのだ。ヨーロッパは、200年はそういう社会が続いていたわけ。そしていまも。切り捨てるというほどでもなく、そもそも、若者には希望がないのが当たり前の時代になるんだ。高度成長がない、社会というのは、そういうものなんだ、そもそも。しかしここでいう、希望というのは、資本主義的な物質的な流動性や行動成長によってもたらされる希望なんだ。実は、そうじゃないものを探す時代に入ったんだ。みんな、たぶんここを混同している。アメリカなどは、すでに明らかにこういう社会になっているし、西ヨーロッパは言うまでもない。ただし、アメリカの一部や新興国は、まだ高度成長しているので、そこと比較して勘違いをしてしまうんだろう。

 なので、物質的水準で、幸福を買うことができない時代に入ったのだ。逆説的に言うと、1980年代くらいまでの日本では、金でかなりの部分の幸福が買えた。1950ー1980ぐらいの高度成長期の日本は、とにかく物質的な成長、、、、何よりも頑張れば報われるという、、、、実際は、頑張ったから報われたわけでもなんでもなくて、高度成長しているからほっとけば所得が上がって、社会的流動性が高いのでどんどん上のクラスを体験できて、心理的にも物質的にも、すさまじい急角度の「成長」が経験できた。それが、報われてている!!という感覚につながっていたんだ。ましてや団塊の世代などのボリュームゾーンは、常に社会の主人公だったので、多少遅れることはあっても、社会のシステムは、彼らにフイットするように再度設計されなおしていった。けど、もうそういった「成長」が当間のマクロトレンドは終わりを告げた。

 時代は変わり、社会全体が「成長の近代」を終えて、「成熟のデジタル中世」へシフトしたわけです。

 「デジタル中世」。見なれない言葉が出て来ましたね。これは、ぼくの理解によると、ひとつの「新しい中世」のことです。

 中世とは、経済成長が小さく、その代わり宗教を初めとする内面文化が花開いた時代でした。経済成長時代を過ぎた我々は今度はその中世を、しかしただの中世ではない凄まじい科学的インフラに支えられた「デジタル中世」を迎えることになるわけです。

 ここまでは伝わりましたかねー。しかし、だからといって、完全に社会全体がデジタル中世と化してしまうわけでもない、とペトロニウスさんはいいます。

 なぜなら、いかに経済が沈滞しようとも、資本主義はなおも稼働し、社会全体を前進させようとしているからです。つまり、現代社会は一面では「成熟の時代」を迎え、「デジタル中世」的になってきているのですが、べつの一面では「成長の時代」がなお続いているのです。

 だから、この社会に生きる人間は「成長」を目ざすか、「成熟」を志すか選ぶことができます。極端な例を挙げるなら、帝国企業を運営するグローバルエリートを目ざすか、さまざまな趣味に深く深く耽溺するオタクエリートを志すかという「選択の自由」が存在しているわけです。

 これは、ペトロニウスさんによれば、「成長の近代」には存在しない選択です。社会の成長期においては、金、モノ、異性、といった「リア充的な」価値観をマッチョに追い求めることが主流価値と化します。

 しかし、「成熟のデジタル中世」においてはそうじゃない。より内面的な価値が重視されることになる。これが、つまり「ゲームのルールが(部分的に)変わった」ということであり、社会がモザイク状になっているということなんですね。

 まあ、モザイク状になった社会とはどういうものかといえば、『UQ HOLDER!』を読んでもらえばわかると思います(笑)。ああいう感じなんですよねー。

 だから、