そういうひとは多いのではないかと思うのだが、ぼくは疲れたり何かいやなことがあったりすると、布団にこもって井上雄彦の漫画『SLAM DUNK』を読み返したりする。初めはうつうつとしていても、読み進めるうちに物語に夢中になり、最後には何か強いエネルギーをもらえる。
もう何度読み返したかわからないのだが、それでも圧倒的な読みごたえを感じる。この作品にはただ単に話の筋がおもしろいという次元を超えて、ひとを勇気づける何かがあるのだ。まさに名作中の名作というしかない。
そして、『SLAM DUNK』作中の数ある名言のなかでも最も強く心を打つセリフは、試合中、あきらめかけた三井寿に向けてのちにかれの恩師となる安西が送る「あきらめたらそこで試合終了だよ」というひと言だろう。
最後まであきらめずに全力を尽くすことの大切さを教えてくれる珠玉の名ゼリフだ。いったい日本中で幾人のスポーツ少年、あるいはアスリートがこのセリフに励まされたことか。いや、このセリフにはひとつスポーツを超えてあらゆる領域に通用する力強い普遍性がある。
将棋の世界において、挑戦者羽生に対し三連敗と追い込まれた渡辺竜王に対し、かれの細君が「渡辺くん、あきらめたらそこで試合終了だよ」とひと言ブログで励まし、そのあと渡辺竜王が見事に四連勝して逆転したというエピソードは有名だ。
このひと言がじっさいに苦境の竜王を励ましたかどうかはともかく、いかに力のあるセリフであるかわかる話である。いかなる絶体絶命の苦境においても、決してあきらめない者にこそ、奇跡の女神はほほ笑む。
しかし、同時に「あきらめないこと」は絶対的に正しいことではなく、どこか問題含みでもある。ひとつの試合をあきらめないことは良いとして、人生は一試合で終わるものではない。
いったいぼくたちはどこまであきらめないで頑張れば良いのだろう? どこまでもどこまでも絶対にあきらめず頑張りつづけることは、ほんとうに素晴らしいことなのだろうか? それはむしろ「執着」というべきではないのか?
このことについては、かつて400mでハードルで世界陸上三位に入賞し、「侍ハードラー」と呼ばれた男、為末大の発言が参考になる。Twitterへの書き込みを集めた著書『走る哲学』のなかで、為末は「やめること」の大切さを語っている。
僕は陸上を続けるということ以外は結構やめまくっている。そういつも言うのだけれど、どうしてもメディアに出るときは“苦しい時を耐え抜いたからこそ出た結果”になってしまう。ハードル転向もハードルに適性を見いだしたと今なら言えるけど、当時は100mに限界を感じての撤退だった。
成功者が語れば、続けるのが大切、やればできる、になるけれど実際には成功するよりたくさんの人が耐えようとして崩れていたりする。そしてメディアでも多く取り上げられるのは成功者の言葉。ほらあの人も言っていると言われて、また限界まで耐える人が出てくる。
継続は力なりは常に撤退を頭に入れている時に効力を発揮する。只ひたすらに継続を信じ過ぎると、大体積み重ね以外の発想も出てこないし、周囲には継続を辛抱するように迫ってしまう。大きなイノベーションは大体何かの思い込みをやめる事が側面にある。
これは一見すると、あきらめずに頑張り抜くことと対極にある思想に思える。とにかくやめることを念頭に置いて行動することが大切だといっているのだから。しかし、必ずしもそうではないだろう。
目の前にある局面を決してあきらめずに戦い抜くことと、その限界を見きわめてやめることは、表裏一体の関係にある。いつかやめることを頭にいれているからこそ頑張れる。あるいは、精一杯頑張ったからこそ清々しくやめることができる。そういうことはあると思う。
もちろん、どこまでがあきらめずに頑張ることで、どこからが現実を見ずに執着することなのか、そこに線をひくことはむずかしい。ひとつたしかにいえることは、努力は必ずしも実らないということだ。
『SLAM DUNK』の作中、湘北高校はあきらめずに頑張りぬいた結果、日本一の山王工業を打ち破る快挙を成し遂げた。感動的な展開ではある。しかし、こんなことは、現実にはめったにあることではない。為末がいうように、ひとつの奇跡の大勝利の裏には、数えきれないほどの無残な敗北が存在しているものなのだ。
ひとにはそれぞれ「限界」がある。どれほどの研鑽を積んでも、叶わないものは叶わない。非情な現実。しかし、このどうしようもないリアルがあるからこそ、ひとの生は輝く、ともいえるのではないか。
井上雄彦自身、車椅子バスケットボールの魅力について、こんなふうに語っている。
平均身長2mのNBAで175cmの選手がやっていること。
216cmの大男が速攻に走ること。
速くない選手、跳べない選手、当たりに弱い選手、不器用な選手。
すべての人間の機能は限られています。
空を飛べる人間はまだいません。
ウサイン・ボルトの走りを見て身震いがするのと同じように、車イスバスケのローポインターの選手がルーズボールに食らいつくのを見て身震いをする。
明確な「限界」が存在するからこそ、その限界にギリギリまで接近しようと試みる選手たちの果敢さに心打たれるのだということ。
スポーツにおける薬物使用が問題視されるのもここに理由がある。仮に薬物の使用で100mを5秒で走れるようになったとしても、そのような記録は決してひとの心を動かさないだろう。
スポーツはただ単に記録上の数字以上のものだ。それはあたえられたリミットに挑む人間の勇気のドラマなのだ。だからこそ、その限界を前にして、ひとつの道を断念することは決して恥ではない。
あきらめたらそこで試合終了だよ。しかし、ひとつの試合が終わったあとも人生はつづく。そして、人生にはゲームオーバーはない。生きているかぎり、どこまでも逆転の可能性を秘めつつ続いていくのが人生だ。あきらめないこととやめること、それは生きることに必須な両輪なのである。