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押井守の本を読んでいて、ふと思ったこと。押井は映画においては「過程」こそ重要なのであって、「結末」は問題ではないと云います。これは非常によくわかる話なのですね。
というのも、映画の骨子はすべて「過程」にあるのであって、「その結果、どうなるか」はほんとうは問題ではないからです。
たとえば、金メダルを目ざして頑張るという話の根幹は「頑張ることそのもの」にあるはずで、「その結果、金メダルを取れたかどうか」は、じっさいは問題ではないはずなんですよね。
「その努力は素晴らしい!」というテーマであるのなら、金メダルをとれたら素晴らしくて、そうでなかったら下らないということにはならない。
その意味では物語のテーマはすべて「過程」にこそあるのであって、「結末」は蛇足に過ぎないということもできるでしょう。
その意味では物語のテーマはすべて「過程」にこそあるのであって、「結末」は蛇足に過ぎないということもできるでしょう。
だから、ほんとうは「結末」は描写される必要はないとすら云える。「我々は勝った!」とか「負けて死んだ」とか、そういうことはまったくどうでもいいと云えばどうでもいいですよね。
しかし、同時に、一般的な視聴者にとっては、「結末」こそが重要であることもたしかだと思うわけです。多くの視聴者はともかくも「めでたしめでたし」とか、「ああ、何て可哀想」とかそういう蛇足を求めます。
もし、そういうわかりやすい結末が省かれていると、「ちゃんと終わっていない」と感じて、批判する。『魔法先生ネギま!』あたりは非常にわかりやすいサンプルかと思いますが、皆、やっぱり「悪いやつをやっつけて世界が救われる」お話を見たくて仕方ないのかな、と思います。世界が救われないと欲求不満に陥るんですね。
で、そういう「わかりやすい結末」を省いた作品は、どこかしら「芸術」めいたシロモノになっていくのだと感じます。やっぱりエンターテインメントにおいては、どれほど蛇足でも「結末」が必要になって来るのかな、と。
なぜなら、エンターテインメントとは、「物語の円環を閉じ、読者を現実世界に帰す」ところまで含めて完結するものだからです。
この後、有川浩さんの話を書く予定なのですが、ぼくは有川作品が売れるのは、ひとつにはいつもハッピーエンドだからじゃないかな、と思うんですよ。
まさに「結末」こそが問題であるわけです。ぼくは物語のテーマにとってほんとうに重要なのは「過程」であることを疑いません。なぜなら、「結果」など運命のいたずらしだいで(つまり、作者のさじ加減しだいで)どうとでも動くものでしかないからです。
しかし、それでも、毎回毎回、悲惨な結末ばかりだったらやっぱりイヤになりますよね。一時期の新本格ミステリとか、バッドエンドが多くて辛かったものなあ(法月綸太郎が悪いのかもしれない)。
純芸術的に考えるなら、「結末」は問題ではないのだから、「最後にはみんな死んでしまいました」とか「その後どうなったかだれも知りません」でも特に問題はない。
しかし、どうしてもはっきりとした「幸福な結末」を見せてもらわないと、読者は「また、この作家の作品を読もう」とは思わないのではないか、ということです。
何が云いたいのか? つまり、芸術家は物語にとってほんとうに重要な意味を持つ「過程」にこそこだわるのだけれど、より通俗的に作品を流通させるためには「結末」が重要になって来るという話です。
それも、
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