ふと思うこと。何らかの問題を考えるとき、「こうなるべきなのに、なっていない!」とだけ考えると、「バカどもめが……」みたいな怒りと諦念に収まってしまう気がする。「それでは、どうしていけば良いか?」という考え方こそが建設的なのではないか。

 何でもいい。たとえば「社会は男女平等になるべきなのに、なっていない!」でも「マスコミは中立公正であるべきなのに、なっていない!」でも「戦争は禁止されるべきなのに、なっていない!」でも(あくまで「たとえば」ですよ)。

 結局のところ、ある自分的に正しいと思われる理屈が存在していて、それが実現していないというのは、皆がその正義を理解できないほど頭が悪いから「ではなく」、何らかの実現しない理由がそこに存在しているということを意味しているのだと思う。もしくはその正義がほんとうは正しくないかね。

 もちろんその理由は間違えている!と叫ぶことはできるんだけれど、「間違えている!」と叫んだところでそれだけでは問題は正常化しないんだよね。

 叫ぶだけで解決する問題がないとは云わないけれど、それは少数派の例外だろう。大抵の問題は、うんざりするような微修正の作業の積み重ねの果てに、少しずつゆっくりと解決していくしかない。

 だから、ほんとうに問題を解決したかったら、「その問題が即座に解決しないその理由」まで含めて考えて、「それでは、どうしていけば良いか?」と思考を発展させるほうが良いんじゃないかな。

 たとえば、差別問題がある時には、「ひとがひとを差別してしまう理由」まで考慮に入れて考えないと解決には進まない。「差別なんて間違えている!」と叫ぶだけではダメだということ。それは自明で、なおかつ差別はなくなっていないのだから。

 人間はロジックだけでは動かない。「こうするべき」、「こうあるべき」という理屈がすべて通るなら、人類の抱える諸問題は何千年も前にすべて解決されていたことだろう。

 だから、現状を改善していこうとするなら、その「ひとは正論や論理だけでは動かない」という現実を受け入れるところから始めるしかないのではないか。そしてぼくは、その現実は当然のことだと思う。

 まあ、インターネットは基本的に呟いたり叫んだりすることしかできない場所であるわけで、しかも