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 小野不由美の『十二国記』に「華胥」と題する短編がある。ある国家の衰亡を描いた作品だが、そのなかでこんなひとことが読者に突きつけられる。「責難は成事にあらず」。

 「何かを非難することはものごとを成し遂げることではない」というほどの意味だ。ぼくはつくづくこの言葉に考えさせられた。

 きょう、インターネットにはひとを非難する言葉があふれているし、だれよりぼく自身、色々な批判をくり返して来た。しかし、それらはしょせん、何かを成し遂げることではないというのだ。この言葉をどう受け止めれば良いのだろうか?

 ひとつには、こんな言葉は妄言だと切り捨てることができるだろう。批判には価値がある、間違えた意見を批判していかなければ社会はそういった意見が蔓延し、社会は腐敗してしまうのだ。間違えている意見を批判し正すことは必要な上に重要なことなのだ、と。

 これは一面で正しいように思う。『十二国記』にしても、批判は必要ないと云っているわけではないだろう。ただ、必要ではあっても、「成事」ではないと云っているのである。

 どういうことか。ぼくなりに云い換えるなら、何かを批判することは「マイナスをゼロにする」行為で、「プラスを生み出す」行為ではないということになる。

 「間違えた意見」という「マイナス」を減らしていくこともたしかに必要だけれど、それが「プラス」を生んではいない以上、その意見を述べている者がそれによって高く評価されないとしても仕方ないのだと思う。

 世の中には、時に間違えた意見を云っているひとが、いつも正しい意見を云うひとより目立っているように思われる場面がある。

 これは理不尽な状況であるようにも思われるが、しかし、収支決算としてみれば、いつも正しいことを云っていても批判ばかりしかしないひとより、時に間違えてマイナスを出しても、プラスの価値を生産できるひとのほうが評価されるのは当然のこととも云えるのである。

 それくらい、社会にプラスの価値をもたらす言説というものは貴重なものなのだ。

 さらに云えば、意見ないし主張の「正しさ」と「価値」はまた別なのかもしれない。「正しくても無価値な意見」はあるし、また、「間違えていても価値がある意見」もありえる。たぶん、「正しさ」こそがすべてだと考えると、色々なことが混乱してくるのだろう。

 いちばんシンプルな例を考えてみよう。だれかが「1+1=3」と主張しているとする。これは明確に「正しくない」意見だ。したがって、「それは間違えている!」という批判が集まることだろう。

 それらの批判は「正しい」。したがって、受け入れられるべきである。ここまでは、ぼくも納得する。

 しかし、「1+1=2に決まっているじゃないか」という意見は、既存の、あたりまえの常識をなぞっているだけに過ぎず、べつだん新たな価値を創出してはいない。それが「責難は成事にあらず」という言葉の意味なのではないだろうか。

 何かしらの批判が「マイナスをゼロにする行為」であるとすれば、「プラスを生み出す行為」とは、