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キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。
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キュウべぇはどこからやってきたのか? 「ほんとうの世界」のリアルと、「新世界の物語」。

2014-07-16 17:02
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     きょう、LDさんとペトロニウスさんのラジオを聴いていたところ、面白いことを思いついたのでまとめておく。思いついたというか、いままで整理できずにいたことが整理できた、ということなんですけれど。


     このラジオの1時間20分のあたりから今回ふれる「新世界」の話が始まるので、ぜひ聴いていただければ、と思います。

     で、「新世界」の話とは何かというと、これ(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar564366)のことですね。あるいはペトロニウスさんがここ(http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140622/p1)で語っている内容です。

     ようするにここ最近、『トリコ』とか『HUNTERXHUNTER』とかで、いままでいた世界よりもっと広い世界=「新世界」を扱っている作品が見られるよね、ということ。

     で、その「新世界」って、「現実の世界」のことなんじゃない?ということです。ここでいう「現実の世界」とは、「主人公が保護されていない世界」といっても良いでしょう。

     通常、あたりまえの物語においては、主人公の前に表れる敵は強さの順番にあらわれてきます。それは『ドラゴンクエスト』的であるといってもいい。

     冷静に考えれば主人公の前に突然最強の敵があらわれて即座に死ぬこともありえるわけですが、まあ、そんな物語は少ない。まずは弱い敵が出て来て、次にそれなりに強い敵が出て来て、そいつを倒すと次は四天王(の最弱)が――というふうにつながっていくわけです。

     これはある意味で「現実」を無視した展開ですよね。つまり、そういう「試練が順々に訪れる物語」とは、「保護された世界の物語」であるわけです。

     もちろん、保護されているなりに「とても敵いそうにないすごい敵」があらわれないと、物語として盛り上がらないわけですが、それにしても「ちょっと勝てそうにないすごい敵」を次々と出すところが作劇のコツであって、「絶対に勝てないすごい敵」があらわれて終わり、ということにはならない。

     たとえばこの手の少年漫画の最高傑作のひとつというべき『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』でいえば、最初にクロコダインが、次にヒュンケルが、フレイザードが出て来て、そこから満を持してバランが出て来る、という順番になっているわけです。

     これがいきなりバランが出て来たら困るところだったと思うんですよね(正確にはその前にハドラーが出て来るんだけれど、それはアバン先生が対決してくれます)。

     こういう物語は非常にカタルシスがありますが、しかし、ウソといえばウソです。現実にはレベル1の状況でレベル99が襲い掛かってくることがありえる。そしてそれで死んで終わってしまうこともありえる。

     つまり、ものすごく理不尽なことが起こりえるのが「現実」の世界。で、この「現実」の世界と「保護された世界」を隔てているのが『HUNTERXHUNTER』でいうところの「無限海」、あるいは『進撃の巨人』でいうところの「壁」なのではないか、というのがLDさんの見立てであるわけです。

     これはこれで非常に面白い話なんだけれど、今回、LDさんはさらに『魔法少女まどか☆マギカ』を取り上げて、「この物語でも(新世界の物語のように)ひどいことは起こっている」と指摘し、つまりは「壁」があるかどうかが重要なんじゃないか、と述べています。

     つまり、『進撃の巨人』や『HUNTERXHUNTER』では「ほんとうに理不尽なこと」が起こる世界とそうでない世界を分かつ「壁」があるけれど、『まどマギ』にはそれがない、その差が大きいんだ、と。

     なるほど、ますます面白い。普通の女の子が突然に理不尽な契約を結ばされてしまう酷烈さが、『まどマギ』のひとつの大きな魅力であったことは自明です。

     いい方を変えるなら、『まどマギ』におけるキュウべぇは、「壁」の向こうの世界(「現実」世界)のプレイヤーで、ひとり「壁」を超えてその世界からまどかたちがいる世界にやって来たのだ、ということもできるでしょう(物理的な、あるいは物語設定的な話をしているわけではないことに注意してください)。

     この場合、物語は一貫して「壁」の内側で繰り広げられるので、「壁」そのものは登場しないのですが、キュウべえは安全な「保護された世界」に「壁の外=現実」の論理を持ち込んでいるということになります。

     そこまでラジオを聴いて、はて、どっかで聴いたことがあるような話だな、と思ったのですが、なんと! ぼくは自分ですでにこの話を書いていたのですね。

     『戦場感覚』と題した同人誌の話です。その本のなかで、ぼくは「この世界は戦場である」という感覚、つまり「ひとは保護されていない=保護されているということは幻想である」という感覚に根ざす物語を、「戦場感覚の物語」と名づけたのでした。

     『HUNTERXHUNTER』にしろ『進撃の巨人』にしろ『まどマギ』にしろ、すべてまさにこの「戦場感覚の物語」に相当します。ただ、「壁」があるかどうかが重要な差としてあるだけです。

     「壁」がない「戦場感覚の物語」は、ある意味でほんとうに身も蓋もないものになります。ある日突然女の子がレイプされてズタボロにされて死んでしまいました、おしまい、といったものがそれにあたります。

     ジャック・ケッチャムの『隣の家の少女』のように。それが「世界の現実」なのだから仕方ない、というのがそういう物語の描写です。

     これはある種の「リアリズム」だとぼくは思う。どんなに整備された社会においても、理不尽なことは起こりうる。だったら、その現実を率直に描くのだ、という方法論はありでしょう。

     それなら、ただ残酷なだけのお話もその「戦場感覚の物語」に入るのか、といわれれば、答えはノーです。「戦場感覚の物語」とは、その「世界の理不尽なひどさ」に対し、「それでも戦っている」という描写が存在するものだけを指す言葉だからです。ひたすらに弱者がひどい目にあっていれば良いというものではない。

     さて、この「戦場感覚」の話とはべつに、ぼくは先述の記事で「人間社会のルール」と「自然世界のルール(グランド・ルール)」といういい方もしてました。

     ここでは便宜上、「ルール」といういい方を採っていますが、「自然世界のルール」とはつまり「ルールがない」ということです。「何でもあり」、「どんな理不尽なことでも起こりうる」ということ。

     これは「世界は戦場である」ということと同じですよね。つまり、「戦場感覚の物語」とは、「自然世界のルールが支配する舞台で、それでも必死になって戦っている人々の物語」ということになります。

     で、ここまで書いていくと、「新世界の物語」における「壁」が何と何を隔てているのか、ということが、ぼくの言葉でも語ることが可能になります。

     それは「人間社会」と「自然世界」を隔てているのです!

     つまり、「人間的なルールが存在する世界」と「一切のルールが通用しない世界」を分けているといってもいい。

     「人間社会」においてはある程度は通用する愛とか、正義とか、人権といったものは、「自然世界」においてはまったく通用しないかもしれません。繰り返しますが、どんなにでも理不尽なことが起こりうるということが「自然世界」なのです。

     だから、「自然世界」においては子供が突然殺されたりとか、愛しあうふたりが永遠にばらばらにされたりとか、「起こってはいけないこと」が平然と起こります。

     そして、ぼくはぼくたちが住んでいる「ほんとうの世界」とは「自然世界」なのであって、「人間社会のルール」とは、それを包み込む人間の願望のオブラートのようなものでしかないと思っています。何でも起こりうる、という「自然社会のルール」こそ「ほんとうのこと」だと。

     しかし、これもやはりその「ほんとうのこと」をそのままに描き出すとほんとうに身も蓋もない物語になってしまいがちです。正義の主人公がある日道を曲がったら交通事故にあって死んでしまいました、ということだって「ほんとうの世界」のルールでは起こるのですから。

     ぼくが「世界は間違えている」というのはそういうことです。「世界は人間が作った、人間に都合が良いルールでは動いていない」ということ。それが「身も蓋もない事実」というものだと、ぼくは思っています。

     しかし、物語とは、本来、人間の夢と希望と願いが込められたものです。だから、この「自然社会のルール」、あるいは「ほんとうのこと」はとりあえず巧みに隠蔽されて、「愛は奇跡を起こす」とか「正義は勝つ」といったことが描かれるのが普通です。

     そして、それらは実に素晴らしい。ぼくは何も皮肉でいっているのではありません。心の底からそういう物語は素晴らしいと思うのです。それはひとの心に希望を与えてくれる物語です。

     ただ、それでも、なお、やはりそういった物語にはどこか欺瞞がただようことも事実です。「正義は必ず勝つ」というウソ、「いつまでも幸せに暮らしました」というウソに、どこかでぼくたちは気づいてしまいます。

     とはいえ、だからといって「ほんとうのこと」を身も蓋もなくそのままに描いた物語は気が滅入る。たとえばコミケで売っているエロ同人誌を見ればそういう救いのない物語はいくらでも見あたるし、それらは一面で「メジャーな物語の欺瞞に対する告発」でもあるけれど、それだけで満足できるという人はそう多くはないでしょう。

     なんといっても、そこには夢も希望もない気がする。で、いま、その「物語のウソ」に気づいてしまい、なおかつ「身も蓋もないほんとうのこと」だけを見たいわけでもない、というひとが一定数を超えたのかな、という気がします。

     そこで、「壁」がある物語(「新世界」の物語)が生み出されたのかな、と。ある程度のところまでは守られていて、しかしその先は冷厳な「ほんとうのこと」が待ち受けている、という物語です。

     まあ、これはいまのところ特に根拠もない「見立て」ですが、ちょっと面白い見方でしょ。

     ペトロニウスさんがよく「ナルシシズムの檻」ということをいいますね。現代社会は、人間が過剰なまでに保護されているが故に、ひとはナルシシズムのループにはまって苦しむのだと。

     これを、ぼくの言葉で言い換えると、「自然世界のルール」が隠蔽された「人間社会」に住んでいる人が、その過保護故に自分の存在を確認できなくなった、ということになります。

     ペトロニウスさんがいう歴代村上春樹作品の主人公たちもそうでしょうし、真綿で首を締められるような苦しみによって自殺未遂を試みた『自殺島』の主人公などがこの種のキャラクターです。

     ですが、かれらはある意味で「安全な(安全だという幻想が確保された)人間社会」に住んでいるからこそ、そういう苦しみに晒されることになったのです。

     戸塚ヨットスクールではありませんが、「生きるか死ぬか」という事態に陥れば、ゆっくりとナルシシズムに苦しんでいるヒマもなくなります。

     で、どうやら社会がそういうフェイズに入ってきたのかもしれません。お前の主張などどうでもいい! 人類存亡のほうが問題だ、というような、より切迫した時代。あるいは少なくともそういう物語のほうに人々がリアリティを感じ始めているのかも。

     『エヴァ』にしても、『新劇場版Q』では、「主人公の選択が世界の命運を左右する」というような自己中心的な地点からは遠く隔たったところに行っているわけです。これらは一様にパラレルな現象であるように思えます。面白いですね。

     ところで、上記で取り上げた同人誌『戦場感覚』はいまなら送料込み800円でお買い求めいただけます(笑)。


     さらにその半年前に出した同人誌『BREAK/THROUGH』もやはり800円です。


     『戦場感覚』と『BREAK/THROUGH』を合わせてご購入いただくと1500円でお買い求めいただけます。


     安っ。2冊とも12~13万文字程度の分量があります。よければ、ぜひどうぞ。
     
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