しばらく前、佐々木俊尚『自分でつくるセーフティネット 生存戦略としてのIT入門』を読み上げた。本書の主張はシンプルだ。「ネットの発達で自分の言動や行動は一切隠せない時代になった。そういう時代において得をするのは他者に寛容ないい人である」と。
最近、これとまったく同じことを記した本が続けざまに出版されたことは偶然ではないだろう。きちんとした目を持っている人たちには時代の変化が見えているのだ。
たとえば菅付雅信『中身化する社会』は本書で使われている「総透明社会」という言葉とほぼ同じ意味で「中身化社会」という語を使っているし、岡田斗司夫『「いいひと」戦略』の内容も本書と限りなく似通っている。
また、ぼくはまだ未読だが、ネットの各所で書かれているところによれば、東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』も本書と内容が通底しているらしい。やはり、時代は「いい人」を求めているのだろうか。
これまで、インターネットの言論と云えば、かぎりなく冷笑的なものが一般的であったように思う。ひとの善意を笑い、「意識の高さ」を笑い、失敗を笑い、成功をも笑う、そういう態度がネットにおいてはごく一般的なものであるように見えていた(じっさいには必ずしもそうではなかったのかもしれないが、そういう印象はあった)。
しかし、どうやら時代は変わりつつあるようだ。LINEやTwitter、Facebookなどのソーシャル・ネットワーク・サービスが一般化し、ごく普通の人々がネットに個人情報を晒すようになったことによって、ネットのアンダーグラウンドくささは払拭されようとしている。そこはもはや未開のフロンティアではなく、単なる生活空間の一部なのだ。
となると、そこを快適な場所にしようとする人々が出てくるのは当然だ。だれもが冷笑と罵倒だけで埋め尽くされたネットを望んでいるわけではない以上、インターネットはこれから大きく変わっていくことだろう。変わっていってほしい、と個人的にも思う。
あるいはそれは、ある種の過激な人々にはネットが軟弱で退屈な空間になってしまうことを意味しているかもしれないが、大半の人はそういう「軟弱さ」のほうを好ましいと思うに違いない。
皮肉や冷笑や罵倒や悪口ばかり好んで味わう人たちなど、全体のなかでは少数派であるはずだ。単なる自己防衛的な冷笑癖を、きわめて洗練された知的な態度だと考えるひとは一定数存在するだろうが、そういう人はせいぜい少数派のアイドルに祭り上げられるに留まる。
佐々木さんはTwitterでも、人間の善意を信頼する旨をツイートしている。
悪意こそが人間の真実だ、なんて考え方はやめたほうが人生は幸せになると思うな。仲間もたくさんできるし。悪意こそが真実だと思っている人は、自分の人生が冷たくなっていくことを想像した方がいいと思う。それこそ冷たい言い方かもしれないけど。
ぼくもべつだん、悪意こそ人間の真実だとは思わない。しかし、「水は低きに流れる」。つまり、人間は放っておくと悪意に堕ちていく存在であるとは感じている。