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 「不倫肯定論」、「続・不倫肯定論」と題した記事が話題を呼んでいる。


 「所有は人間の自由を剥奪する」というタイトルの一節からもわかる通り、ひとりで複数人と恋愛関係をもつことについて考察した記事だ。

今までの価値観では、『結婚してひとりの人間と添い遂げること』が唯一にして最大の幸福とされてきた。しかし、現実には三組に一組は離婚していて(これは近い将来「二組に一組」になるとも言われている)、婚活ブームの裏には結婚したくてもできない人たちが大量にいて、結婚していたとしても夫婦仲が険悪になっていたり、実際に浮気や不倫をしている人たちも大量にいる。

これはもう、現代の恋愛や結婚というシステムが良い感じに限界を迎えているのではないのかと思うことが多い。では、次は何が来るのか。そこで、最近の私が何となく感じているのが「不倫肯定論」であり、冒頭のカップルが結んだ契約(?)のように、(新しいスタイルが台頭する過程において)ひとりが複数人と付き合うようなスタイルが増えてくるのではないのかと睨んでいます。

 結論からいうと、いわゆる「不倫」はそれ自体は悪いことでも何でもないので、やりたい人はどんどんやればいいと思う。

 不倫したら民法で責任を取らされるとかいう人もいるようだが、それは相手が訴えた場合でしょう。互いの了解のもとに「不倫」を行うなら何も問題はない。

 まず、「互いに自分以外の人と恋愛しない」という「約束」があって、一方がそれを破るから問題になるわけだ。初めからそんな約束をしなければ何ら問題はないことになる。

 とはいえ、そんな関係が可能だろうか? 机上の空論に過ぎないのでは? そうも思う。

 人間は一般に、いま恋愛関係にある他者に対して「独占欲」を抱くものだとされている。そして、その他者がほかの人間と恋愛関係に陥ると「嫉妬」を感じるものだと。

 これはほとんど常識とされていることだ。だからこそ、結婚制度という一夫一婦制が導入され、機能しているわけだ。少なくとも、恋愛とは一対一で行うものだというのが近代的なコモンセンスだろう。

 しかし、ほんとうにそうだろうか? そもそもなぜ恋愛すると「独占欲」を感じるのか、ぼくにはよくわからないんだよね。それはそういうものなのだ、といわれるかもしれないが、何の根拠があるのやらわからない。

 ひとはなぜ「独占欲」を抱くのか? あるいはなぜ他者の愛に対して「嫉妬」するのか?

 冷静に考えてみれば、どんなに深く愛するパートナーも、自分の所有物ではないのである。かれ/彼女の行動は本来自由であるはずなのだ。いったいなぜ、何のために相手の行動を束縛しなければならないのか?

 自明のようでいて、よくよく考えてみるとよくわからないということが世の中には往々にしてあるが、これもそのひとつのようだ。

 「なぜ近親者とセックスしてはいけないのか?」と同様、「そういうふうになっている」としか答えようがない問題であるのかもしれない。

 しかし、盲目的に常識を信じこんで疑わない人以外は、「そういうふうになっている」では納得できないだろう。

 現に、複数人同士の恋愛関係を示す「ポリアモリー」という言葉がある。デボラ・アナポールの『ポリアモリー 恋愛革命』のAmazonコメントによると、

 ひとがひとを愛するのは、ごく自然な欲求だ。恋人がいようが、結婚していようが、魅力的な相手が現れれば思わず惹かれるのが「愛の引力」というもの。

 従来の関係では、そんな気持ちをムリヤリ押し込めるか、あるいはこそこそと隠れてつきあうかしか選択肢はなかった。こんなやり方は、自分の気持ちを裏切り、パートナーの信頼も裏切っている。1対1の関係は、表向きは誠実そうに見えて、その実、不誠実、不健全な裏面をつねに併せ持っているのだ。

 一方、ポリアモリーは、自分に正直で、パートナーにも誠実、健康的なつながりである。1対1の関係のように、相手を束縛、支配、所有することもない。おたがいの自由、成長、愛のエネルギーの開放をめざしている。 このように、ポリアモリーは、なによりも誠実で信頼ある愛情関係であり、フリーセックスやスワッピングなどとはまったく異なる。

 ポリアモリーは、一夫一婦制をまったく否定するわけではなく、家族を拒むものでもない。むしろ、家計や住居をともにする強い絆と、そうではない弱い絆をともに含めて、親密な交流ネットワークを形成し、ゆるやかな疑似ファミリーをつくりだす「拡張された家族主義」。一夫一婦なら離婚が避けられない事態でも、ポリアモリーならその危機を回避できる可能性が高まる。

 ということである。しかし、現実にぼくたちの社会では一夫一婦制(モノガミー)が圧倒的優勢を誇っているわけだ。モノガミーの問題点はあきらかであるにもかかわらず、ポリアモリーはなぜ発達しないのか?

 じっさいなぜなのか、ぼくにはまるでわからない。ひとは愛する人がほかのひとと愛し合っていたら自然と傷つき妬むものだ、というのが答えなのかもしれないが、当然、そんな答えでは納得できない。

 それはしょせん文化的に組み立てられた常識なのではないか? 相手に対して所有欲(あるいは所有幻想)を抱かないような愛のスタイルもありえるのでは? なぜそれが発展しないのか? 不思議ですねえ。

 たぶん、恋愛感情や嫉妬心を実感できる人にとっては不思議でもなんでもない、あたりまえのことなのかもしれないが、ぼくは「そちら側」ではないので、どうにもピンと来ないわけである。

 子供を育てていくためには、愛情がある家庭が必要なのだ、という人もいる。しかし、現在の家庭にも問題があることは間違いないではないか? 父ひとり、母ひとりという家庭が育児に最適だなどと、いったいだれが決めた?

 ポリアモリーな関係から成る「オルタナティヴな家庭」で子育てをしてみたら、案外、うまくいくかもしれないという発想は空想的だろうか?

 だれかと恋人をシェアするなんて、ゾッとするという人もいるだろう。しかし、考えてもみてほしい。シェアも何も、その人はもともとあなたのものではないのだ。

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