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私の周囲には、インターネットで創造性を発揮している人がたくさんいる。クリエイティブな職を手にしている場合も少なくない。インターネットがなければ、彼らは作品を発表しようとも思わず、仕事を得ることもなかったかもしれない。私の目には、インターネットの世界は多様性豊かな熱帯雨林のように見える。色とりどりの動植物が息づき、数メートル歩くだけでまったく違う生物相が現れる。インターネットは不毛の大地ではありえない。
(中略)何より、私たち1人ひとりがイノベーターたろうとすることで、インターネットをランキングの砂漠から救えると思うのだ。ネットの世界を、わくわくするような創造性のジャングルにしていけると思うのだ。
一読、「なるほどなあ」と思った。
まとめると、インターネットには多様な作品が存在する。しかし、消費者側の需要が決まりきっているのでその多様性は目立たない。
まとめると、インターネットには多様な作品が存在する。しかし、消費者側の需要が決まりきっているのでその多様性は目立たない。
なぜ需要が一定なのかといえば、インターネットによりひとの評価が可視化されたことによって、まったく新しい作品に挑戦する人種「イノベーター」が少なくなったからである。
そして、その一方で「マジョリティの多様化」も進んでいる。マジョリティの情報源がクラスター化され細分化されたからだ。
なので、消費者は自らイノベーターとなることによって、この「じっさいには多様性が存在するにもかかわらず、それが目立たない状態」を解決するよう努力するべきだ、ということになるだろうか。
非常にスマートで、納得の行く理屈である。しかし、あえていうなら結論が弱い。「イノベーターが消失した時代」においてイノベーターたることは簡単ではないはずだ。
「がんばってそうなれ」といっても、具体的な解決策とはいえないのではないか。人間は弱い。いくらイノベーターたることが大切だとわかっていても、ついついAmazonのレビューや各種ランキングに頼ってしまうと思う。
「消費者よ、コンテンツ・ジャングルを開拓するためにイノベーターたれ」という呼びかけは魅力的だが、あまり現実的な効果があるとは思われないのである。
インターネットがあれば、他者の評価をすぐに得られる。たとえば映画を見たとき、すぐに他人の感想を読みたくなる。共感を得たいからだ。しかし、結果として自分の感想を自分で考えなくなってしまう。さらにインターネットの世界はクラスター化が進みやすい。自分の見たい情報だけを見て、自分の居心地のいい価値観に安住してしまいがちだ。自分の世界を広げるために、馴染みの薄いものにも手を出すよう心がけたい。もしかしたら苦い経験をすることになるかもしれないが、新しいものにチャレンジするのは悪いことではない。さもなくば、井伏鱒二の『山椒魚』のように身動きがとれなくなるだろう。
それはその通りなのだが、それでもやっぱり多くの人は『山椒魚』の道を行くに違いない。そのほうが楽だからだ。ぼくはそう思う。
したがって、このままでは、膨大な多様性を持つコンテンツ・ジャングルはあいかわらず見通しが悪いままだろう。マジョリティの嗜好は多様化したかもしれないが、それでもマイナーコンテンツには光があたらないままなのに違いない。
それでは、どうすれば「多様な作品が多様に評価される時代」が訪れるのか。――どうすればいいんでしょうね。
ちょっと即効的なアイディアはないのだが、やはり上記記事でイノベーターないしアーリーアダプターの役割を果たしているとされる人々、佐々木俊尚さんがいうところの「キュレーター」たちの行動が問題になるだろう。
以下、ぼくが考える処方箋を述べる。
(ここまで1586文字/ここから1864文字)
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コメント
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>どうすれば「多様な作品が多様に評価される時代」が訪れるのか。
なぜそのような時代を望むのですか?
>「消費者の多様性」が失われることが、
>巡り巡って「供給者の多様性」をも断ってしまうのだ。これはまずい。
なぜ、「まずい」のですか?