弱いなら弱いままで。
うむ、かなり出来がいいですねー。どこが作ったんだろう? 気になる気になる。
というわけで、きょうは『3月のライオン』の話。羽海野チカさんの『3月のライオン』は、将棋漫画でもありますが、むしろ棋士を務めるひとりの少年の成長物語といったほうが正しいでしょう。
そこでは、勝負にすべてを賭ける棋士といえども、あたりまえの日常生活も送っている、というごく当然のことが自然に描かれています。
主人公の桐山零は時に苦しみ、時に悩みながらも、一歩一歩着実に成長して行きます。そして、初め、将棋の天才以外は何ひとつ持っていないようにすら見えたかれのまわりにはあたたかい心を持つ人々が集まってくるのです。
そしてその一方で、物語の各所では、自ら望んで自堕落な生活に堕ち、自分の可能性をつぶしていく人々の姿も、あたかも零の影のように描かれています。
この描写を読んで、ぼくは怖いなあと思ったのですよね。これはつまり「自由」というものの本質的な怖さだな、と。
現代社会において、ひとはかつてない自由を享受しています。どんなふうに生きることも自分の自由。自分で選択して決めていくことができる。
しかし、それはどんな生き方をすることも自分の責任だということを意味しています。愚かな選択をしてもだれも止めてくれない。叱ってもくれない。それがこの社会で生きるということであり、堕ち始めたらどこまででも堕ちていくことができるわけなのです。
そのなかで自ら努力し、自分を高め、より良い自分になっていこうとすることはなんとむずかしいことなのでしょうか。
「自由」は恐ろしい。どんな自分になっていくことも自由であるということは、ほとんどの人にとって、ただ堕ちていくことの自由を意味しているだけなのではないでしょうか?
――というようなことを、いつだったかLINEで超暗黒生命体てれびんに話したのですが、そうしたらあっさりと「でも、零くんは自由だけれど、いろんな人に叱ってもらっていますよね?」といわれて、あれれ、と思いました。
そ、そうっすね。たしかにその通り。うーん、何かぼくの理屈は間違えていたかしら?
『3月のライオン』の物語中、零くんはひとりで暮らし、孤独なほどの自由を享受していますが、しかしその一方で、いろいろな人たちがお節介なまでにかれに関係して来ます。
零の「心友」を自認する二階堂は、「もっと自分の将棋を大切にしろ」といい、かれの担任教師はひとりで弁当を食べるかれを心配します。
そうなのです。零は自由ではありますが、ほんとうの意味では孤独ではないのです。かれのまわりにはかれが道を逸れそうになったら叱りつけてでも正そうとしてくれる人々が無数にいる。
その結果、零自身とあつれきが生じるとしてもかまわずに、かれのことを第一に考えてくれる心優しい人々です。
うーん、何なんですかね、これ。どうして零くんのまわりにはこんなに優しい人たちが集まってきて、かれに関わろうとするのでしょうか?
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