弱いなら弱いままで。
表現に「唯一の政治的に正しい形」は存在しない。
新年2日目の深夜です。きょうもヒマなので更新します。「正月からマジメに働いているおれ偉い」という気がしなくもないけれど、間違いなく錯覚でしょう。
ぼくの場合、マジメに働けば働くほど遊んでいる気分にしかならないんだよなあ。ようするに自宅の自室でキーボードをカタカタ叩いているだけですからね……。
ちなみに大晦日と元旦の記事は合わせて15000文字くらいあります。よく書きました。結局のところ、年末年始もあまりぼくには関係ないということですね。
さて、さっきまでTwitterでいろいろ発言していたので、きょうはそれをまとめて記事にしたいと思います。書いたものをまとめるだけなら簡単だと思われるでしょうが、実はけっこう手間のかかる作業だったりします。まあ、どうでもいいんだけれどね。
それでTwitterで何を話したかというと、いわゆる「ジェンダー」の話をしたのでした。
ジェンダーという言葉の正確な意味はよくわかりませんが、ぼくは「ある性差に対して押しつけられる固有のイメージ」みたいな意味で使っています。「男らしさ」とか「女らしさ」といったものですね。
もっとも、ぼくは「男らしさ」とか「女らしさ」といったものはそれ自体は悪いものではないと思っているんですよ。男らしく力強くあること、女らしくしとやかであること、それが悪いことだとはなかなかいえないでしょう。
そこに問題があるとすれば、それらの美徳が「男らしさ」とか「女らしさ」といった、特定の性別にひも付けされたネーミングで呼ばれることです。
男性だけの美徳でないなら「男らしさ」には問題はないし、女性だけの美徳でないなら「女らしさ」にも問題はない。そういうことがいえるかと。
つまり、ぼくは男らしい女性がいてもいいし、女らしい男性がいてもいい、もちろん、男らしい男性も女らしい女性もいていい。そう思うのです。それが少数派が生きやすい多様で寛容な社会というものなのかな、と。
ジェンダーの話題は即座に性差別の話題に繋がるわけですが、オタク文化などは殊に「特定のジェンダーイメージしか描かない」と非難される文化です。
で、それはある程度は正しい批判だと思うんですよね。まあ、オタク文化における女性像が現実に則したものだとはとてもいえないでしょう。
でも、ぼくはだからといってオタク文化が「現実の女性」、ないし「政治的に問題のない女性像」を描くべきだとは思わない。そういう「唯一の正しい姿」へ表現を収斂させようとする方法論は往々にして表現の先細りを招くだけだと思うのです。
そもそも差別問題はしばしば単純化によって解決しようと試みられるものです。つまり、多様な存在を「すべて同じものなのだ」とみなせば差別はなくなるという考え方ですね。
でも、これは倒錯しています。たとえば男性と女性という多様性があるとき、それを「男も女も同じだ」と単純化して捉えることは現実にある多様性を無視してむしろ差別に加担している。
そうではなく、その男性と女性という多様性をより拡大すること、つまり「男性」とか「女性」といったフレームでは括りきれないほど多様な人間が存在するという現実を認識し、また主張することのほうがよりまっとうだとぼくは思います。
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