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「いまそこで苦しんでいる人々を見捨てるのか?」といわれたら。
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「いまそこで苦しんでいる人々を見捨てるのか?」といわれたら。

2015-02-03 22:14
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 しばらくインターネットから遠ざかっていました。海燕です。いや、正確にはスマホでネットはしていたのだけれど、パソコンがネットに繋がらない状態が続いていたのですね。ブロマガはWi-Fiじゃないと更新できないのでちょっとピンチでした。

 さて、一月もあっというまに終わって早くも二月ですねー。一月はスキー旅行へ行ったり、その足で東京まで遊びに行ったりとイベントが多い月でした。その直後、インフルエンザにかかったりもしていますが――。二月も楽しい月になるといいのですけれど、さて、どうなるやら。

 ちなみに、お気づきかと思いますが、先月あたりから一本の記事の分量がいままでの倍くらいになっています。

 そのほうが読みごたえがあっていいかな?と思ったわけなのですが、それだけの分量の記事を発案し書きつづけるのはやはりそこそこ大変なので、息切れしないよう気を付けたいところです。

 さて、本題に入りましょう。ペトロニウスさんのブログ「物語三昧」には「Basic Skills」というタグがあって、そこには「そのブログを読む際の基本となる記事」が収められているのですが、この記事は、ぼくにとってのそのベーシック・スキルズにあたる記事だと思ってもらっていいと思います。「不条理を受け入れることとそれに対処すること」の話です。

 人間、生きていると、色々な不条理に遭遇します。そのなかには、誰を恨みようもないようなほんとうにどうしようもないこともありますし、明確に責任者がわかっていることもあると思います。

 ぼくはこの世界そのものに理由があり、人間にとっては不条理とも思えるが世界においては当然であることを、「世界の不条理」と呼んだりします。一方、人間社会に理由を持ち、人々の意思によって決まっているものを「社会の不条理」と呼びもします。

 このうち、「世界の不条理」は基本的に解決不可能な性質のものです。まあ、「人は年老いる」とか「愛は色あせる」といったことで、超長期的に見れば科学のイノベーションによって解決されないとも限りませんが、とりあえずはどうしようもなく、ただ受け入れるしかないものですね。

 ぼくはこれを世界のグランド・ルールと呼んだりします。たとえば、数年前の東日本大震災はまさに「世界の不条理」の表出でした。

 地震そのものはだれに責任があることでもありませんし、「悪」も存在しません。それにもかかわらず、何十万という人々が人生を狂わされ、破壊され、なかには命さえも失う人々が出て来る。どんなに善良な、親切な生き方をした人もそれとは一切関係なく大切なものを奪われる。これが不条理でなくて何でしょうか。

 しかし、そうでいて、それは本質的にどうしようもない、ただ受け入れることしかできない類のことです。

 あるいはそういった天災も科学が進歩すればいずれは何とかできることかもしれませんが、それでも「人は生き方の善悪とは関係なく偶然に災厄に遭うことがある」というグランド・ルール自体は変えようもないわけです。

 そもそも人が死ぬことそのものが人間から見れば最大の不条理であるわけですが、少なくともしばらくは人間がそのことをどうにかできるとは思えません。それはこの世界そのものに組み込まれた聖なる理なのです。

 一方、「社会の不条理」のほうは人間の人間性に原因があり、変えようと思えば変えられる性質のものです。たとえば「いじめ」とか「差別」などは典型的な「社会の不条理」でしょうし、「戦争」は「社会の不条理」が極大化したものだということができます。

 いわば「社会の不条理」とは人間社会が抱える課題そのものです。「世界の不条理」と違って、その気になれば何とかすることができるし、また何とかするべきである事柄たち。

 そして、人類数万年の歴史において、ぼくたちは政治や科学や思想の進歩によって、多くの課題を解決してきました。「差別」そのものを解決することはいまだできていいませんが、現代日本は過去に比べれば相対的に差別が少ない社会を実現したといっていいでしょう。

 こうやって、少しずつ、少しずつ、社会は改良されていくのだと思います。しかし、それなら「社会の不条理」はすぐにでも変えられるべきなのか? 改善されて然るべきなのか? いや、実は必ずしもそうではないかもしれない、というところに、この記事の主張があります。

 あるいはこの文章を読まれている方は、「いじめ」や「差別」はすぐにでもなくなったほうが良いに決まっているではないか、と思われるかもしれません。

 あるいは「戦争」や「原発問題」は明日にでも解決されなければならないだろう、といわれるかも。その理由は簡単で、「いま、そこに現実に苦しんでいる人がいるから」というものでしょう。「いますぐそこにいるその苦しんでいる人々をこそまず救わなければならないはずではないか」と。

 これはちょっとすぐには反論できないような強烈な理屈です。「お前はいまそこで苦しんでいる弱者を見捨てるのか?」といわれて反論できる人がどれだけいるでしょうか。

 しかし、だからといって「問題を急進的に解決しようとすること」は実は問題をさらに深刻にしてしまうことがあります。「社会の不条理」を急速に変えようとすると、それはそれで大きな反動があったりするわけです。

(ここまで2173文字/ここから2299文字) 
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不条理を生み出す構造的な問題に対して超長期で「ゆっくりした解決」を志向しつつ、目の前で苦しんでいる人に対しては痛みを和らげるように手助けすることは出来るのではないですか?
「ゆっくりとした解決」と「目の前で苦しんでいる人を助けること」は排他的ではないと思うのですがどうでしょう?
ホームレスを生み出す社会構造に対しては社会の進歩という未来に希望を託すしかないが、現在ホームレスになっている人に対しては自立したりホームレスを脱する手助けをすることは出来るはずです。完璧には救えないが部分的には問題を解決できる。実際「ビッグイシュー」は良い取り組みだと思いますし。
そして完璧ではないが社会をすこし改良する取り組みの積み重ねが長期の漸進的な改良につながり「ゆっくりした解決」をもたらすのではないでしょうか。不条理に対して社会はゆっくりと解決していくことしか出来ないのだから目の前で苦しんでいる人を見捨ててもいいという論理は、漸進的な改良の一歩目すら踏み潰す危険な論理な気がします。
なんか偉そうなこと書いちゃいましたが、もっと気楽に「根本的な解決は長い時間はかかるが困っている人のフォローくらいはできるよ」ってスタンスがちょうどいいんじゃないですか。冷徹に考える必要なんてあるんでしょうか?

No.2 119ヶ月前
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