池上彰の講義の時間 高校生からわかる「資本論」

 「マジシャンズセレクト」という言葉をご存知だろうか。マジシャンが使いこなす基本的なテクニックのひとつで、「あいてに選んだと思わせておいて選ばせている」というものである。ぼくはマジックには詳しくないが、熟練したマジシャンともなるとあいての意思を自在に操ることができるのだとか。

 ところで、最近、長年の景気低迷が続く日本社会では、「ほんとうの幸福はお金では手に入らない」「お金よりも人間的な生活のほうが大切」というようなことがいわれるようになった。

 いや、この手の価値観はいつの時代もあるわけだが、それでも高度経済成長の頃は一般的に生活が貧しかったから、お金の大切さがよくわかっていたであろう。「お金より幸福」というような言葉がひんぱんにいわれるのは、裏返せば日本がそれだけ豊かになった証拠である。

 ちなみに漫画家の西原理恵子は、著書『この世でいちばん大事なカネの話』のなかで「この種の言葉には何の根拠があるのか」と皮肉っぽく語っている。

 さて、ぼくにいわせれば、お金か、幸福か、という二択にも、ちょっとしたマジシャンズセレクトが仕掛けられている。そもそもお金か幸福かどちらかを選ばなければならないという時点でおかしいとは思わないだろうか。だって、お金もあって人間的にも幸福な人生がいちばんいいに決まっているじゃん! 

 こう書くと、「両方は手に入らないものなのだ」といわれるかもしれない。そうだろうか。そもそも「貧乏暇なし」というくらいで、お金がなければ必然的に忙しく立ち振る舞わざるをえないはずである。現実的に考えれば、たくさんお金があるひとほど余裕もたくさん持っているものなのではないか。

 もしそうだとすれば、「金」と「幸福」を秤にかけるような考え方はばかげている。持つものはすべてを持ち、持たないものは何も持たない、これが身も蓋もないリアルなのではないかと考える。

 もちろん、お金があればそれですぐさま幸せも手に入るとは限らない。お金はしょせんお金以上のものではない。だが、少なくとも「幸福でさえあればお金はいらない」というようないい方には欺瞞を感じざるをえないのだ。

 お金のない幸福はきわめて脆弱で不安定なものである。お金はしばしばこの世のあらゆる悪意と災難からひとを守ってくれる。お金を軽視することは安全と安定をも軽視することだ。

 たしかに『クリスマス・キャロル』のスクルージのように、ひたすらに金を貯めることにしか興味がない守銭奴としての人生はごめんだろう。しかし、スクルージが最後に難病の不幸な子供を助けることができたのは、かれが金持ちだったからだ。お金をたくさん持っていれば、それを人助けに使うことだってできるのだ。マネーはどんな聖者よりも慈愛に満ちている。

 ところが、日本では必ずしもお金を大切にすることの評判は良くないわけだ。この国ではわりに金勘定は悪徳に近いものと見られている。そして、「金より幸福」というコピーが並べ立てられ、「幸福の国ブータン」などがサンプルとして挙げられる。

 でも、それってどうなのだろう。なるほど、ブータンは良い国なのかもしれない。べつだん、ぼくもブータンに含むところはない(例の国民幸福率97パーセントという話にはいくらか胡散臭さを感じないでもないが)。

 しかし、日本もブータンのようになればいい、とは思わない。ブータンにはブータンなりの問題点がたくさんあるはずである。現実を無視して空想的に理想視することは、ブータンに対しても失礼だろう。「夢の幸福の国」なんてどこにもあるはずもない。それは結局、幻想のユートピアであるにすぎない。

 その是非はともかくとして、人類はすでに資本主義を選択してしまった。それはつまりキャピタリズムこそひとを幸福にするシステムであると膨大な犠牲を払いながらも選びだしたということである。したがって、ぼくたちはこれからも決して金勘定と無縁に生きていくことはできない。

 まあ、グローバリズムの進展に直面したりすると、マネーがひとを幸福にするということが信じられなくなるのは無理もないとは思う。が、たとえばインドやブラジルではお金の力で貧困層から脱出できるひとが増えているはずなのである。お金はいまもちゃんとひとを救っているのだ。

 たしかに金がすべてという拝金主義はばかばかしい。お金はひとつの手段であるに過ぎない。それは当然だ。とはいえ、「金」と「幸福」を比べて「幸福」を選ぶことを強要するような言説を見かけるたび、ぼくはどこかにひそむマジシャンのほくそ笑む顔が目に浮かぶような気がするのだ。