「少子化」はリスクか

 少子化論争が花ざかりである。マスメディアではもちろん、インターネットでもしばしば「少子化の果てに悲惨な未来が待ち受けている」という意見を見かける。

 それはひとつの「終末的世界観」とワンセットだ。つまり、少子化が続くと経済は沈滞し、活力を失った老人ばかりの社会で子供たちの声はどこにも聴こえなくなり、人々は絶望的な生活を送るようになるというようなヴィジョンである。

 だれもがその未来を避けるためにいまから手を打たねばならないという。まるで少子化が悪であることは疑いようのない事実だといわんばかりだ。しかし、本当にそうなのだろうか。

 そもそも、地球レベルで見れば、ぼくたちはむしろ「人口爆発」に悩まされているはずである。地球人口がすでに七十億を超えたといわれる今日、「人口問題」といえばむしろその爆発的な増加を意味しているはずだ。一方で「人口減少」を問題視し、他方で「人口増加」をも問題視する。これでは「人口問題」などあって当然ということになる。

 いや、そうではない、とあなたはいうかもしれない。むろん、地球的規模での人口増加も問題ではある。しかし、日本一国の問題と世界規模の問題を取り違えてはならない。世界規模では人口抑制が必要だが、日本一国はいま人国増加を必要としているのである、と。

 しかし、世界のほかの国々(主にいわゆる「発展途上国」と呼ばれる国々)に対し人口の抑制を求めながら、自分の国は人口増加を望む。これは凄まじい矛盾というべきではないだろうか。

 当然、この矛盾は日本のみのものではなく、たとえばイギリスなども抱えているものであるが、ともあれ、ぼくたちはこのダブルスタンダードは何なのか、正面から直視しなければならない。

 堀井光俊『少子化はリスクか』によると、パラドックスの背景にあるものはいわゆる「先進国」のエゴイズムだという。先進各国はいずれも経済的問題を抱えており、新興国に追いつかれ、追い抜かれるのではないかという漠然とした不安を有している。

 その背景にあるものはやはり人口の増減である。だから、先進国はさまざまな一見正当に見える理由をつけては新興国の人口増加に干渉してそれを抑制しようとし、一方で自分たちの国の人口は増やそうとするのだという。

 たしかにいわれてみればぼくたちも「人口十三億人の中国が、さらに人口を増やしつつある」「今世紀中に地球人口は百億人に達する」などという情報を受け取ると、何ともいえない不安を感じる。そして、人口を抑制しなければ、と思う。そのくせ、自分たちの国の人口減少は憂えるのである。冷静に考えれば、これはあきらかにおかしい態度だ。

 人口減少とはそれ自体は単に統計的事実であるに過ぎない。その統計的事実に対し、不安と主観によって色付けされたさまざまな言説が流布されるとき、初めて「人口問題」は誕生する。つまり、人口が減っても増えても、人口問題言説は生まれえるということ。

 もちろん、人口減少に伴い、いろいろな問題が立ち上がってくるだろうことは事実である。しかし、少なくとも「人口減少は大問題だからいますぐ人口増加に転じるよう手を打たねばならない」といった言説は一面的だと思う。それは事実の片面しか見ていない。

 それにしても、いま日本でつづく人口減少傾向はどうにも手のうちようがない宿命なのだろうか。それとも、人口回復の手立てもあるのだろうか。それは存在する、というひともいる。たとえば前掲書によると、2002年の「第一回少子化社会を考える懇談会」では、家族社会学者の山田昌弘が次のように発言しているという。

「少子化対策というよりも、若者の希望が強い社会では自然と子どもが生まれてくる。つまり子どもの数というのは社会の活力のバロメーターだと私は思っています。木村先生のご専門になってしまいますが、ローマ帝国にしろベネチアにしろ文明が衰退するときには必ず少子化が伴っていたという例がありましたので、そうならないためにも、若い人の希望をつなぐことが結果的に少子化対策となるような社会であればと思っています」

 つまり、いまの社会で子供が減っているのは、社会の責任だというのである。しかし、よくよく考えてみれば「若者の希望が強い社会では自然と子どもが生まれてくる」とは何ら根拠を有さない発言である。

 「若者の希望」と「子どもが生まれてくる」ことになぜ相関関係があるのかわからない。山田はようするに「人間は環境さえ整えば自然と子どもを生み、育てたくなるものだ」といいたいのだろうが、どんなに環境が整っていても、そもそも子どもを作る気がない人間というものはいるはずだ。

 たとえば「出産は痛そう」「子供が可愛いと思えない」「ただめんどくさい」といった理由で子供を作らないひとも大勢いるだろう。そして、それらの態度は何ら悪くない。

 ぼくたちが生きる近代民主主義社会では、あらゆる選択は個人の自由に任せられているはずで、「出産育児の義務」などというものは憲法のどこにも書かれていないからだ。子供を育てるための理想的な環境さえ整えば、人間は自然と子供を作りだすという思想は幻想だということ。

 もっとも、子育ては健全な大人の義務だと考えるひとはいまの社会にもまだ大勢いるだろう。「ひとは結婚し子供を作り、育て上げて初めて一人前」、そんな思想で生きている大人はまだまだたくさんいるはずだ。

 その手の思想は容易に女性批判、若者批判と結びつき、「草食系男子」だの「最近の若者のコミュニケーション能力の低下」が問題になったりする。いわゆる俗流若者論である。

 その背景にあるものは大人たちの「自分たちの世代はきちんと恋愛し、結婚し、子供を作り育てるという義務を果たしてきた。それに比べていまどきの若者は」という不満であろう。だが、ライフスタイルが多様化すれば晩婚化が進むのは当然である。少子化は見方を変えれば社会の豊かさの結末ともいえる。

 たしかに「日本の人口は将来的に8000万人にまで減少する」などといわれるとえもいわれぬ不安を抱いてしまうことは事実だ。人口が減っていくと何がまずいのか、具体的なことはわからないが、何となく悪いことが起こりそうな気がする。

 そもそも、子供が生まれないということは、未来の自分たちの生活を支えてくれるひとがいないということではないのか。だが、その種の形のない不安を正当化するために、若者や女性を批判しても仕方ない。

 仮に奇跡が起き、人口が増加に転じたとしたらそのときはそのときで問題が起こるはずなのだ。そもそも日本列島に適正な人口とは何人なのか、あなたは明確に応えられるだろうか。少子化と人口減少によって問題は起こるにしろ、それはそういうものとして受け止めて対策を練ることが肝要である。

 そうでなければ「出産義務法」だの「避妊禁止法」だのといった悪夢のような法律によるディストピアが生まれるかもしれない。結婚するも、しないも、子供を作るも、作らないも、すべては個人の自由なのだ。その崇高な自由を、「少子化こわい論」に売りわたしてはならない。

 少子化問題とは、解決よりも受容が必要な問題なのだ、そうぼくは考えている。少子化問題視論者にだまされるな!