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FacebookやLINEなど、いくつものソーシャルメディアを使って、人々は互いを接続しあう。
そこには「つながること」の原初的な歓びがある。
すべてソーシャルメディアは自分はひとりぼっちで孤独だという「寂しさ」を癒やすために利用されているといってもいいだろう。
逆にいえば、現代とはだれもかれもがひどく寂しがっている時代だということかもしれない。
常にだれかと「つながっている」ことを確認しなければ寂しさに耐え切れないほどに人々は孤独に対する耐性を失っているということ。
「つながり」の時代はきわめて切実な「孤独」の時代でもあるのだ。
さて、『ソーシャルメディア中毒』という本がある。
文字通りソーシャルメディアに中毒している人々の「症例」を集めた一冊だ。
ソーシャルメディアを使う層に若者が多いため、一種の若者論となっているが、決して「若者叩き」に終始した内容ではない。
この本は現代の若者が抱える「つながり」の問題を赤裸々に綴っている。
現代のティーンのコミュニケーション作法は、ソーシャルメディアの発達によって以前とは決定的に変化しているという。
「未読無視」とか「既読スルー」といった言葉を目にしたことがある方は多いだろう。
「ソーシャルメディアでの発言を無視してはならない」、「素早く返事をしなければならない」というモラルは現在、ティーンにひろく浸透しているようだ。
そこにあるものは「孤立」することを何よりも恐れる心だろう。
自分を認めてもらいたい、自分の儚い存在を肯定してほしい――その、切なる願い。
それ自体はきわめてよく理解できる心理ではあるが、自然、行き過ぎれば依存を生む。
ぼく自身、相当にネットとソーシャルメディアに依存している身の上なので、ひとり高みに立ってその問題を裁こうとは思わない。
しかし、「つながり」への過剰な依存が、十代のまだ未熟な精神をたやすく打ち砕きかねないことは自明だろう。
何者かでありたいと切望しながら、現実にはまだ何者でもない、そして「きっと何者にもなれない」かもしれないティーンの不安を、ソーシャルメディアは優しく癒やす。
しかし、ひとたびその「相互承認のネットワーク」に巻き込まれたら脱出は困難だ。
なぜなら、そこから抜け出すためには「だれにも認められないかもしれない」という恐怖を乗り越えなければならないからだ。
だれに認められなくてもいい、自分は自分だ、と割り切るためには、十代の心はあまりにも繊細である。
かくして、ソーシャルメディアへの依存地獄はより深くなってゆく。
しかし、ひとはソーシャルメディアなしでも行きていけるし、じっさいにそれが誕生するまではだれもそんなものが必要だとも思っていなかったのである。
ひとは社会的な動物であり、ひとりでは生きていけない。それはほんとうなかもしれない。しかし、だからといって必ずしも「常時」だれかとつながっている必要はないのだ。
ぼく自身は、インターネットにふれるまでの20年間、実質的に「ぼっち」だった。ほとんど友達もいなかったし、自分の発言に価値があるとも思っていなかったのだ。
だれと会話するでもなく、したがってだれかに認められることもなく、ひとり、ほんとうにただひとり、孤独に本を読む日々が続いた。
しかし、いま思えば、その物いわぬ孤独の20年間がぼくという人間を育て上げてくれたのだろう。
その意味では、初めから同じ趣味のひとと「つながる」ことができるいまの中高生がうらやましいのと同時に、少し可哀想に感じる。
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