弱いなら弱いままで。
『寄生獣 セイの格率』が最終回を迎えました。
いくらかアレンジされているところはあるとはいえ、原作漫画とほぼ同じ結末で――そしてやはり感動的です。
原作で初めてこの結末を見たときはそれはそれは震えたもの。いまから20年も前のことですね。
今月は劇場映画版の『寄生獣』も公開されることになるので、この『寄生獣』という伝説的傑作にとって記念すべき月といえそうです。
さて、この比類ない物語にはひとりの殺人鬼が登場します。
かれは人間でありながら人間を殺しつづける「バケモノ以上のバケモノ」という存在です。
最終的にはおそらく死刑になったものと思われますが、そのかれが主人公に向かっていいます。
「自分こそが人間らしい人間だ」と。
ほかの大半の人間は自分を偽っているに過ぎないと。
その演説は結局はヒロインの「警察を呼んで」という実にまっとうなひと言によって中断されるのですが、ぼくはこの殺人鬼のいうことには一理があると思うのです。
なぜ、ひとを殺してはいけないのか? その問いに明確な答えがない以上、「どこまでも自分の欲望に忠実に生きる」こともまたセイのひとつの答えなのではないか、そう考えます。
そういう姿を「非人間的」と呼び、「バケモノ」とののしることは何かが間違えている。
もちろん、この種の反社会的な存在は社会のルールに抵触しますから、社会はその存在を抹殺しようとするでしょう。
具体的には、捕まえて一生檻のなかに閉じ込めるか、さもなければ死刑にする。それが社会の「絶対反社会存在」に対する対処です。
いい換えるなら、そのくらいしか「どうしても社会と相容れない存在」を処理する方法は存在しないということでもある。
社会はそこで社会自身が生み出した倫理を持ち出すわけなのですが――どうでしょう? そういう真に反社会的な存在に対して、社会のモラルがどれほどの意味を持つでしょうか?
倫理とはつまり社会に生きる人々同士の「約束事」であるに過ぎないわけで、その「約束事」の外にいる存在に対しては何ら意味を持ちません。
ライオンに法を説いたところで意味はない。寄生獣にも、また。殺人鬼もそれと同列の存在なのでは?
それなら、非情な殺人鬼に対して我々はどう行動するべきなのか? それはやはり「社会のルール」に則って処断するよりほかない。つまり、「警察を呼ぶ」しかない。
それがどれほどエゴイスティックなことに過ぎないとしても、やはりそれだけしかできないわけなのです。
しかし、だからといって犯罪者を「人間ではない」とすることは間違えている。
それはつまり、人間の範囲を狭めて理解できないものを排除するだけの理屈に過ぎない。
ぼくはそういうふうに思います。
この世には、社会の常識から見れば「バケモノ」としか思えない存在がある。社会はその「バケモノ」を説得する論理を持たない。ただ、捕まえて処理するだけ。
それは「社会にとっては」正しい理屈です。社会にとっての最優先課題は社会の存続なのですから。
しばらく前に「『黒子のバスケ』脅迫事件」と呼ばれる事件があって、その犯人は、凶悪犯罪者である自分は死刑になるべきだと主張していました。
しかし、社会は決してかれの主張を採用しないし、またそうするべきでもないでしょう。
法律はべつにかれの自意識を満足させるためにあるわけではないからです。それはただ社会が自衛するために存在している。
かれはその欺瞞を問うことはできるかもしれません。ですが、ほんとうは何も矛盾してはいないのです。
社会は社会のことを再優先に考える――それだけのこと。きわめて合理的な理屈だと思います。
ただ、そこに「善悪」とか「倫理」を持ち出すと、話がややこしくなって来るだけのことです。
そう――人間は(人間社会も)しょせん自分のことを第一に考えるしかない。
だから、ほんとうは何が「人間的」で、何がそうでないのか問うことそのものが間違えているのでしょう。
そこまでは当然といえば当然の理屈です。だけれど、
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