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たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』である。
世の中には天才といわれるようなクリエイターがいて、時折、信じられないほどクオリティが高い作品を生み出す。
しかもそれはただ品質的に高度だというだけではなく、何かひとの心を捉えて離さない特別な魅力を秘めている。
そういう作品にふれたとき、受け手は思う。「ああ、まさにこれこそ自分が夢にまで見た理想の作品だ」。
そして、その作者に対し強い親近感を抱く。この人は自分のような人間のことをとてもよく理解してくれているに違いない、と。
これが、ひとがあるクリエイターの「ファン」になるということである。
クリエイターとファンの良好な関係は、しばらくの間は続くだろう。そのクリエイターがファンにとって最高の作品を提供しつづける限り、ファンはかれを神とも崇めつづけるに違いない。
この状態を、ぼくの言葉で「蜜月」と呼ぶ。
しかし、時は過ぎ、状況は変化する。永遠に変わらないかに思われたその天才クリエイターの作品も、しだいに変わっていく。
その変化は、人間であるかぎり必然的なものだが、ファンには重大な「裏切り」とも感じられる。
なぜなら、ファンはそのクリエイターに幻想を見ているからだ。そのひとが自分の理想を体現しつづけてくれるという幻想を。
だからこそ、クリエイターがその理想から外れることは途方もなく辛く感じられるのだ。
そして、ときにファンはその「裏切られた」という思いをクリエイターにぶつける。
最も熱烈なファンであったひとは、最も凶悪な弾劾者になるだろう。こういうパターンを、あなたも一度や二度は見たことがあるのではないだろうか。
『エヴァ』ではなく、『グイン・サーガ』でも、『AIR』でも、『ファイブスター物語』でもなんでもいいのだが、熱狂的な「信者」を集めるカルトな傑作は、次の段階に進んだとき、「そっちへ行くな! ここに留まれ!」というファンたちの非難に晒される。
かれらはいうに違いない。「一時だけ夢を見せてそれを裏切るなんて、なんてひどい!」と。
しかし、それは本質的にクリエイターのせいではないのである。どんな天才的なクリエイターといえども、人間である以上、変わっていくことは必然なのだ。
そして、ファンとまったく同じ人格ではない以上、ファンの気持ちをどこまでも汲み取りつづけることも不可能なのである。
あるいはファンはいうかもしれない。「自分は金を払ったのだから、作者には自分の望むとおりにする義務がある」。
だが、そんな義務はない。わずかな金銭で他人の行動をコントロールしようなどと、無駄なことだ。
たとえばアニメ『艦これ』のように、大規模な失望が「炎上」現象を生むこともある。それも無駄といえば無駄なことである。
どんなに騒いでも、他人の気持ちを変えることはできない。そしてすでに作られてしまった作品の筋書きを変えるわけにもいかないのだ。
大切なのは、クリエイターと自分はべつの人間であり、べつの価値観を持っていて、べつのものを良いと考えるのだ、という事実をしっかり認識しておくことである。
ひととひとはあくまでも「個別」。蜜月の夢は甘いが、それはどこまで行っても幻想に過ぎない。
だから、怒ってもいいし、批判してもいいが、他人を自分の思い通りにコントロールしようなどと考えるべきではない。他人は他人に過ぎないのだ――たとえ、信じられないほど天才的な他人ではあるにせよ。
理屈では、そういうふうに思う。とはいえ、
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「店員土下座動画」の例のように、「消費者優越意識」が高いと、期待外れの際に「裏切られた!」と怒ることが多いのでしょうかね。
私も作品や作者によっては、大いに期待することはあります。同時に「クリエイターはしょせん他人」「創作物を買うのは一種の博打」とも思っています。
そのため、期待はずれなことはあっても、裏切られたとまでは思いません。
もしクリエイターに自分の望むものを作らせたいのなら、消費者ではなくスポンサーになるしかないでしょうね。
それでも好きなようにやっちまうことがあるのが、クリエイターというものですが。
変わったのはクリエイターの側でなくて、ファンの側だった、という可能性もあるかもですね。年齢で好みは変化するでしょうし、読書体験が充実して感性がインフレしてゆくこともあるでしょうし。でも人間の自意識的として「自分は変わっていない」と思うはずなので。