セッション

 注意! 以下の文章で公開中の映画『セッション』について全面的にネタバレしています。これから『セッション』を見る予定の人は読まないか、あるいは覚悟をもって読むかしてください。

 25日に超会議のために東京に行ったとき、せっかく上京するのだから新潟では見れない映画を見ようと、話題作『セッション』を見て来た。

 結論から書くと、実に面白い映画体験だった。

 この作品はある有名音楽学校でジャズバンドを指揮する教師フレッチャーと、かれの生徒に選ばれた青年ニーマンの対立と対決を描いている。

 フレッチャーは生徒に対しくり返し暴力と暴言を用いて「指導」する人物で、ニーマンはその影響下でしだいに追い詰められながらも才能をのばしていく。

 音楽映画としては非常に演出が過剰で、何度となく血を流しながら練習するシーンなど、ちょっと苦笑いしてしまうようなくどさがある。

 一定以上の年齢の日本人ならちょっと大昔のスポ根ものを思い出すだろう。

 しかし、単なるスポ根映画としてはあまりにも暗い情念に満ちていることもたしかだ。

 なんといっても生徒に対して軍隊的な(というかおそらく軍隊でも赦されない)ハラスメントをくり返すフレッチャーの暴力性は迫力に富んでいる。

 リアルに考えるならなぜこんな人物が教師を続けられるのかと思ってしまうが、それはこの際、どうでもいい。観客個々人が好きなように理由を見つければいいことだ。

 フレッチャーはニーマンの密告によって最終的に教師を馘首になってしまうのだが、その後、あるコンサートを利用してかれに復讐する。

 しかし、ニーマンはそこで初めてミュージシャンとして「覚醒」するのである。

 この映画の評価のポイントはこのフレッチャーという人物をどう評価するか、だろう。

 はたしてフレッチャーはあまりに音楽を愛しているが故に狂気の行動に走ってしまった善良な人物なのか。それとも根っから暴力的な悪党なのか。

 ぼくの答えはどちらでもない。これに関してはいっしょに映画を見たてれびんが(めずらしく)とても良いことを書いているので引用しよう。

 ちなみにてれびんはこの文章を宿泊したカプセルホテルのなかでスマホで書いたらしい。寝ろよ。

 フレッチャーは天才を作り上げたい教師ではない。口ではそう言っているが、実は違う。彼の本質は自己を偏愛し肯定を求める器の小ささだ。物語ラストで自身を告発したニーマンへの復讐心は純粋なものだ。自己を偽り後付けで肯定していく器の小さい男なのだと思う。ニーマンがラストでフレッチャーに反旗を翻したとき彼はその9分19秒に自己肯定を再構成していく。

 はじめは自分の復讐に反旗を翻したニーマンへの怒りがあった。しかし自分では止めることの出来なくなったニーマンを見て考え方を変える。俺はこの反発をこそ待っていたのだと後天的に自己を偽るのだ。偽りの信念はいつの間にか本物と入れ替わり、ニーマンこそが自分の作り上げたかった超人なのだと思い込むようになる。

 この自己を後天的に肯定してしまう姿勢は一見すると天才を生み出そうとする狂気にみえる。しかし違うのだ。これはフレッチャーのミニマムな王国を作ってしまう自己顕示欲と、フレッチャーの狂気に感化されて自己を肥大化させてしまったニーマンの狂気が並列に存在してるだけの現象に過ぎない。この天才を生み出そうとした狂気は、自分に制御できない怪物をフレッチャーが見たときに後天的に自己肯定をしてしまったが故に産まれた錯覚だ。

 フレッチャーは作り手のエゴを体現した存在だ。もし自分が諦めなかったら音楽の極地に辿り着けたのではないかという無念を体現している。しかし同時に器の小ささ故に理想に身をさらけ出すことを許さない。フレッチャーは他者への指導にテンポの追求を求める一方、自身のピアノ演奏は非常にリリカルになっている。同時に自分の王国を自分の小さな手の中に置いておきたいのだ。

 そこにはエゴしかない。自己のみを見ている。肥大化した自己は自分の小さな王国を作りだす。自分の小さな王国を完成させたなら、次は自分の創り出した天才を産みたいという偽りの欲求を充実させる番となる。

 グロテスクで醜悪にして器の小さなモルモット実験である。

 この姿こそがセッションという映画の一つの真実なのかもしれない、とぼくは思ってる。

 とても珍しい映画を観た。通常では見れないものだろう。観て後悔はない。

http://uzumoreta-nitijyou.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/post-9243.html

 その通り。『セッション』という映画で印象的なのは、フレッチャーとニーマンのむき出しのエゴである。

 普通、この手の暴力的な師弟関係を描く物語では、「暴力を振るうもの」と「暴力を振るわれるもの」の間にある種恋愛的な相互依存関係が成立するものだ。

 もちろん、それは正常な愛ではなく狂った依存に過ぎないのだが、ともかく暴力による紐帯とはある種、異常に甘美なしろものなのである。

 ストックホルム症候群という言葉をしっている方もおられるだろう。しかし、この映画ではフレッチャーはニーマンをどこまでも蹴落とそうとし、ニーマンはフレッチャーのことを最後まで憎みつづける。

 ふたりの間に『巨人の星』のような、『エースをねらえ!』のような、『ガラスの仮面』のような甘美な依存関係はない。

 あくまでエゴとエゴの衝突が本作のコンセプトである。

 そして、ラスト9分19秒、ニーマンがフレッチャーに反逆したその時から、ふたりの男はついに音を使って強烈にぶつかりあう――のではなく、すれ違い合う。

 この映画はあたかもボクシングのような音のバトルを描いた一種の格闘技映画「ではない」。

 ニーマンとフレッチャーは殴り合うことにすら成功していない。

 ただ、まずフレッチャーがニーマンが殴って、今度はニーマンがフレッチャーを殴るという作業の繰り返しがあるだけで、格闘技的な意味での「殴り合い」というコミュニケーションの次元に到達していない。

 フレッチャーにしろ、ニーマンにしろ、あくまで自分の世界に閉じているのだ。

 その意味で『セッション』という邦題はきわめて皮肉な響きを持つ。

 そう――ペトロニウスさんふうにいうなら、『セッション』はどこまでも閉ざされて内圧を高めていくふたりの男のナルシシズムの狂気を描いた物語である。

 フレッチャーとニーマンは互いを見つめているようで実は見ていない。かれらのなかにはどこまで行っても自分しかない。

 菊池さんがいうところの「愛」がこのふたりには致命的に欠落している。あるものはただ暴力だけである。

 したがって、かれらはほんらい愛の儀式であるはずの音楽をも暴力的に活用する。

 しかし、それはこの映画の欠点ではない。むしろ最大の特長というべきだ。

 『セッション』は近年まれに見るほど巧みに暴力と暴力を振るう人間の本質を描いたバイオレンス映画の傑作なのである。

 フレッチャーをどう評価するか、とぼくは書いた。そのぼくなりの答えを書こう。

 かれはつまりどこまでも自分を肯定しつづける自己正当化の化け物である。

 チャーリー・パーカーのような天才を生み出したい、そのためなら自分はどんなきびしい指導をもいとわない、とフレッチャーは口先ではいう。

 そしておそらく、自分でもそのことを信じ込んでいる。

 しかし、それはどこまでも暴力を振るう側にとって都合がいい理屈である。

 じっさい、フレッチャーはそのハラスメントによって生徒をひとり自殺に追い込んでいるのだが、その生徒のことを感傷的に思い出して涙したりする。

 この演出をどう捉えるかは微妙なところだが、ぼくはフレッチャーが本心で涙しているのだと考えるべきだと思う。かれの頭のなかで事実はねじ曲げられてしまっているのだ。

 フレッチャーは際限なく現実を恣意的に捻じ曲げ自分を正当化しつづける。

 これを見て思い出したのが『フライト』という映画。その作品ではある航空機パイロットの自己欺瞞とそこからの救済が描かれているのだが、『セッション』では最後の最後までフレッチャーの欺瞞が暴かれることはない。だからこそそこには救いはない。

 てれびんが書いているように、フレッチャーは自分の暴力を触媒として「覚醒」したニーマンの暴走をもあたかも自分が計算した通りの出来事であるかのように自分を偽っていく。

 『DEATH NOTE』的にいうなら「計画通り」というところだ。

 しかし、もちろんすべてがフレッチャーの計画通りでなどあるはずがない。

 かれはただ好き勝手に暴力を振るい、そしてその結果を正当化しつづけているだけの怪物だ。この映画の本質はここにある。他者に暴力を振るう人間の心理の想像を絶するグロテスクさ。

 自分は誤解されているといい、すべては音楽のためなのだと語るフレッチャー。かれはその戯れ言を本気で信じ込んでいるのだろう。

 つまり、かれは自分が暴力のために暴力を振るっていると認めることができるほど強くないのだ。

 すべてを偽る弱い男、他人を威嚇し抑圧することでしか自分を肯定することができない小さな男――それが真実のフレッチャーである。この造形は見事としかいいようがない。

 そう、人間がいかにして暴力に走るか、そしてそのためにいかに自分を偽るか、また暴力の被害者がそのためにどのように壊れていくのか――それを克明に迫力たっぷりに描いているという一点において、『セッション』はやはり傑作なのだ。

 ただし、万が一にも「やっぱり天才を育てるためにはフレッチャーのようなやり方が必要なんだ」などと受け取ってはならない。

 フレッチャーは最悪の教師である。間違いなく。

 ただし、最悪の教師の最悪さを徹底的に描き切ったという一点において、映画は最高である。

 ぼくは、そう考える。