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さて。
そういうわけできのうからハッピーエンド評論家として活動を開始したわけですが、具体的な記事に移る前に、まずひとつの問いに答えを出しておかなければならないでしょう。
そもそもどういう結末をハッピーエンドと呼ぶのか、ということです。
この最も根幹的な問題を避けて話を進めるわけにはいきません。
しかし、そうはいっても、もちろんこの言葉に明確な定義があるわけではない。
精々が「主人公を初めとする登場人物が幸福な状態に至った結末」といった程度で、非常にあいまいな定義しかありえないわけです。
したがって、どの作品がハッピーエンドでどの作品がそうでないのか、ひとによって差が出るはずだと思います。
それはまあ、ある程度はしかたないことでしょう。
ひとがいつか死ぬ存在である以上、完全無欠のハッピーエンドなどというものは存在しえない。
物語の結末はすべてそうですが、ハッピーエンドもまた、ひとつの区切りに過ぎないのであって、じっさいにはその先も時は流れてゆくはずなのです。
「いつまでも幸せに暮らしました」。その言葉は美しくはあってもやはり欺瞞です。
現実には「いつまでも続く幸せ」などというものはありはしない。
その意味では「ハッピーエンドは不可能である」ということもできるでしょう。
ですが、そういってしまったらハッピーエンド評論家として活動することもできなくなってしまうので、べつの視点から見てみることにしましょう。
大切なのは、「物語はあくまで物語であって、現実ではない」ということです。
もちろん、現実にはすべてはやがて変化していくのであって、永遠に続くことはありません。
しかし、大切なのはあくまでその物語の受け手にどのような印象を与えるかです。
受け手がページをとじる瞬間、幸福な気分に酔うことができるのならそれで良いのです。
天才バレエダンサーのニジンスキーは、ジャンプの頂点で観客の視界から消えたために、観客はまるでかれが永遠に上昇しつづけたように感じたといいます。
ハッピーエンドもまたそういう性質のものでしょう。
物語がある幸福な状況でみごとに区切られるとき、受け手は、じっさいにはありえないこととしりながらその状況が永遠に続き、主人公たちがその後いつまでも幸せに暮らしたという夢を見るのです。
夢。そう、ハッピーエンドとはある種の夢想であり、幻想なのでしょう。
それは現実世界には存在しない物語のなかだけの現象です。
しかし、まさにそうだからこそ儚くも貴重な概念だといえるのではないでしょうか?
現実らしさを何より大切に思うリアリストにとっては、ハッピーエンドなどくだらないものかもしれません。
そんなものは存在しないのだ、とかれらはいうでしょう。いっときの夢、幻、そのようなことに心奪われるなど愚かしい、と。
それはある意味では正しいかもしれません。
ですが、
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コメント
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記事中で明日のジョーに触れられていましたが、荒木飛呂彦も著書で「結果として死んでも、その過程で勇気を手に入れたり、心が成長したら僕の中でハッピーエンドなのです」と言っていますね。
「世の中には命よりも大事なものがある」という考えに基づくと、ハッピーエンドの作品はけっこう多いかもしれません。
海燕(著者)
たしかにそうですね。鬱エンドといわれる『SWAN SONG』とかもある種のハッピーエンドなのかも……。