「どこか遠くへ行きたいな」。
弱いなら弱いままで。
「どこか遠くへ行きたいな」。
「どこか遠くへ行きたいな」。
大林宣彦監督の名画『ふたり』のなかで、主人公の姉は口癖のようにそう呟く。
いま在るここではないどこか遠いところへ行ってしまいたいという想いは、非常に普遍的で、共感を呼ぶものだろう。
ぼくも時々、「いま・ここ」を離れて遥か遠くへ旅立ってしまいたくなる。
しかし、その想いを実行に移す勇気もないので、たとえばこんな本を読むのである。
『ロングステイ入門ガイド』。
世界各地で「ロングステイ」する方法について書かれた一種の入門書だ。
アジア、ヨーロッパ、北米、オセアニアなど、さまざまな場所でのオススメ都市が書かれている。
こういう本を読むと、「どこか遠くへ行きたい」という熱はいっそう高まる。
いつかはほんとうに旅立つかもしれないが、その前に「言葉を覚えて、貯金を貯めて」などと瑣末なことに意識が行ってしまうあたりが凡人のつまらないところだ。
日常の重力を振りきる第二宇宙速度に達するためには、いかにも覚悟が足りない。
とはいえ、ぼくも一応、ノマドワーカーの端くれの土くれくらいのポジションにいる人間なので、その気になれば世界中どこに住んでも問題がないはずである。
だから、こうしてガイドブックを読みながら、「いつかは――」と夢見たりするのだ。
まとまった額のお金が貯まり、片言でいいから英語を話せるようになったら、その時は日常の重力圏から別世界へと旅立とう、と。
いくら狭くなったといわれていても、じっさい旅しようと思えば、世界はあまりにも広い。数しれない選択肢が存在する。
また、お金が続くかぎり移動しつづけることもできるし、どこか一箇所に長期滞在することも自由だ。
自由――そう、ひとが「いま・ここ」から遠くへ行きたがるのは、その旅路自体が自由を象徴しているからなのだろう。
どこか遠い場所には、さまざまな桎梏と軋轢に満ちた日常生活からかけ離れた自由が存在しているように考えるに違いない。
たとえそれが幻想に過ぎないとしても、やはりひとは「どこかにあるかもしれない」楽園を夢見てやまないものなのだ。
不世出のファンタジー作家としてしられるロード・ダンセイニに「ロンドンの話」と題する短編がある。
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