一昨日のことになるでしょうか、『ZIP』という番組で「リア充オタク」の特集を放送したそうで、Twitterなどの各種SNSでこのワードが話題になっていました。
この番組そのものはもう確認しようがないので(探してみればどこかにアップされているかもしれないけれど)、「リア充オタク」という言葉の元ネタであるらしい原田耀平『新・オタク経済』を読んでみました。
結論から書くと、それほど目新しいことは書かれていません。
だいたいいままで出た情報で説明できるというか、予想通りの内容。
一冊にまとめたことに価値があるかも、って感じ。
ぼくが観測している限り、「ライトオタク」と呼ばれるオタクカルチャーのカジュアル消費層がネットで語られ始めたのは10年くらい前。
その頃は批判的なトーンでの意見が多かったように思います。
オタクは本来、過酷な修行の末にたどり着く崇高な境地であるべきなのに、最近のオタクのぬるさたるや何ごとじゃ、みたいな内容ですね。
『新・オタク経済』にも記されているように、この「ガチオタによるヌルオタ批判」という行為はその後も延々と続き、いまでもまだ続いています。
今回、「リア充オタク」という言葉が出て来たときに巻き起こった「そんなのオタクじゃない!」という意見は、典型的なガチオタによるライトオタクへの反発に思えます。
たしかに、本書で著者が定義している「リア充オタク」の多くは、旧来型の定義ではオタクに含まれない存在かもしれません。
しかし、じっさいにかれらがオタクを名乗り、また周囲からもオタクと認められているという事実はあるものと思われます。
第二世代や第三世代のオタクがいくら「そんなのオタクじゃない!」と叫んでも、実態が変わってしまっているのだからその声は届かない。あまり意味のある批判にはなりえないのですね。
じっさい、オタク文化へのカジュアル層の流入という現象はこの10年間で至るところで目にしていて、岡田斗司夫さんが「オタク・イズ・デッド」とかいい出したのもその関連でしょうし、『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』などという本ではヤンキー文化との接近という形で同じ現象が語られています。
オタクのライトオタク化とヤンキーのマイルドヤンキー化はパラレルな現象なのですね。
だから、まあ、「リア充オタク」と呼ぶべき層の出現は、必然といえば必然なのです。
この傾向の端緒はニコニコ動画の開設であると思われるので、ぼくらニコ動利用者にとっても無関係とは思えません。
もっとも、ぼくのブログを「リア充オタク」が読んでいるとはあまり思われませんが……。
そんなに長いスパンの話ではなく、ここ2、3年だけを取ってみても、オタク文化は相当普及したように思えます。
『ラブライブ!』のソーシャルゲームが国内1000万ユーザーを突破したとか聞くと、隔世の感がありますね。
アクティヴユーザーがどれだけいるかは別に考えるべきだとしても、1000万という数字はコアなファンだけでは獲得できません。
もはや、スマホで『ラブライブ!』をプレイしている若者は「普通」であり、特筆するべき存在ではなくなっているのでしょう。
ボカロ小説が何百万部売れた、とかいう話を聞いても同様の感慨を抱きます。
時代は変わったんだなあ、ということですね。
で、この現象をどのように受け止めるかなのですが、ぼくは基本的には「良いこと」だと思っています。
カジュアル層が広がらなければ文化の発展はないわけで、一部のマニアだけに好まれていた文化が大衆的に広まっていくことは良いことかな、と。
もちろん、そのなかには本書で書かれているような「エセオタク」も混じっていたりするでしょうし、旧来のオタクとしては面白くないことも多いかもしれません。
ですが、いつだって時代はそういうふうにして変わっていくもの、変化を否定しても始まりません。
もうひとつ付け加えておくなら、オタク自己言及ライトノベルの「脱ルサンチマン」の流れもこのオタク文化のカジュアル化とパラレルな関係にあるでしょう。
時代的にはわりと新しいけれど内容的にはちょっと古い印象を受ける『冴えない彼女の育てかた』と、その同時代作品ながら当時としては斬新だった『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』や『僕は友達が少ない』、そして最新型の『妹さえいればいい。』や『エロマンガ先生』を読み比べてみると、ライトノベルのオタク描写が変わっていっている様子がわかると思います。
ぼくはそれを「脱ルサンチマン」と呼ぶわけですが、「リア充」を敵視し、オタク文化の神聖不可侵を守ろうとする気概が、あきらかになくなって来ている。
同じ平坂読の『僕は友達が少ない』と『妹さえいればいい。』を比べるのがいちばん明瞭でしょうが、オタク文化は既にコンプレックスとかルサンチマンとは無縁のところまで来ているのです。
それはオタク漫画の代表格である『げんしけん』の内容的な変遷を見てもあきらかでしょうし、また、『ヲタクに恋は難しい』みたいな漫画が出て来ることもひとつの必然なのでしょう。
ネット上では「リアリティがない」とか「こんなのオタクじゃない」とこき下ろされたりもしていますが、『ヲタクに恋は難しい』で描かれているような「リア充オタク」は普通に実在するようになっていると考えるべきです。
そこまで状況は変わって来ているのですね。
そういうわけで『新・オタク経済』の基本的な論旨には文句はないのですが、脇の甘いところがいくつかあって、なかでも旧来のオタクに対する描写には苦笑させられるばかり。
結局のところ、「オタクは暗くて非社交的、ファッションはダサくてモテないが自分の好きなことには夢中」というイメージは残存され、それがほんとうにそうなのかの検証は行われないのです。
この本のなかで前世代のオタクの代表的イメージとして語られているのは、映画『電波男』の主人公なのですが、この映画がどれだけ的確に当時のオタクを代表し、あるいは象徴しているか、という検証は一切実施されません。
本書のなかではかつてのオタクが「ダサくてイタい人たち」だったことは既成事実として語られているように思います。
ぼくはべつにそういう傾向がなかったとはいいませんが、当時のオタクが全員が全員そういうふうだったわけではないはずで、ここらへんの偏見をそのまま使用していることには疑問を感じざるを得ません。
まあ、本書のテーマが第四世代以降の新しいオタクたちである以上、そこはどうでもいいのかもしれませんが、どうも偏見を助長するカテゴライズであるように思えてならないんですよね。
これはあらゆるカテゴライズにいえることですが、じっさいには大半の人はそれらのカテゴリにきれいに収まりきるというよりは、グレイゾーンのところにいるわけです。
それを「リア充オタク」はこうだ、「イタオタ」はこうだ、といってしまうと、途端に見えなくなるものがある。
特に腐女子に関する記述は強烈なバイアスの存在を感じさせずにはいられません。本書にはこう記されています。
当然、イタオタは男性ばかりではありません。BL(男性同士の恋愛)モチーフの作品を好み、自らを「腐女子」と自称する女性たちも、多くはイタオタに分類されます。彼女たちは、そもそも自分たちの趣味嗜好を同好の士以外に啓蒙しようという気がないため、非オタクに対する社交性は低い傾向にあります。
そして、腐女子の特徴として、特徴のあるイラストとともにこう列挙されている。
・変わり者が多い
・Twitterではやたらとテンション高い
・男性声優のツイートをリツイート
・イケメンを見ると脳内でカップリングにしてしまう
・ゴスロリ系と思しき服装
・一人称が「ボク」な子もいる
・家ではジャージで過ごしているがコミケなどのお出かけは気合をいれた服装
・普段の外出は母のおさがりの婦人服
・郊外にある大型衣料店で買ったバッグ
・手作りのビーチアクセが目いっぱいのおしゃれ
・薄い本(BL同人誌)大量購入
・スカートは嫌いだけどちょっとおめかし
こんな奴いない、とはいいません。ある程度はこういう人もいるでしょう。
しかし、
コメント
コメントを書くリア充オタクもマイルドヤンキーも勝手に定義を作り広めて儲けようとする連中の仕業によるものだよね。マイルドヤンキーの定義に当てはまるのなんて昔から大量にいたのに最近現れたかのように言われる。あれの定義はヤンキーでもなんでもない都会に憧れも志も持たない低所得者。それを無理矢理広めようとするからネットでは批判が見られた。
「おたく」の反対語としての「リア充」という言葉が生まれたのは、西暦二〇〇〇年を過ぎてからですね。その前の一九九〇年代には、まだ、「リア充」という言葉はありませんでした。
私の記憶している限りでは、一九九〇年代以前の「おたく」の中にも、おしゃれな人はいましたし、普通にリアルの人間と恋愛している人もいました。結婚して子供もできて、普通に家庭生活を営みながら、「おたく」活動を続けている人も、おおぜい知っています。
私の感覚では、「『おたく』である人が、ファッションに興味を持ったり、恋愛したり、結婚したりということとは、縁が薄いに決まっている」という考えのほうが、違和感があります。
「全か無か」のように、何でも二つにすぱっと割り切れるものではないですよね。何だか、無用な線引きをして、対立をあおっているだけの気がします。
次の記事でレスを書きます。