敷居さんがブログで「ウェブ小説を読むことの気楽さ」について語っていますね。


 なぜわざわざ素人が書いた小説を読みあさるのかという問いへの解答です。

 曰く、「小説家になろう」を読むときは「ちょー気楽に、面白くない場合もあるってことを織り込み済でとりあえずパラパラ読む」。

 なるほど、納得です。多くのアマチュア小説は、最低限の面白さすら保証されていないわけですが、なぜそういうものをあえて読むのかといえば、まったく期待せずに読むから労力を使わなくていいのだということですね。

 いい換えるなら、「心が正座していない」ということができるかもしれません。

 真剣な姿勢で物語に向き合っているのではなく、ごく気楽にページをめくってみるという態度。

 あるいはそれは小説に向き合う態度として不遜なものとそしられるかもしれませんが、じっさいのところ、ウェブ小説のような媒体を読むためには必然的なスタイルだと思われます。

 敷居さんはこの姿勢を「雑誌」を読むときに喩えていますが、ぼくはむしろ音楽の定額配信を連想します。

 ウェブ小説を読む気楽さは、1000万曲とか3000万曲といったまさに途方もない数の楽曲をてきとーに流して聴いていく気楽さと、一脈通じているのではないか。

 その昔、といってもわずか数十年前のことに過ぎませんが、その頃には音楽はある程度「正座して聴く」ことが普通のものだったでしょう。

 日常生活のなかで音楽を聴く方法がレコードを聴くことくらいしかなく、「好きな楽曲を好きなように好きなだけ」聴くというスタイルは困難だったからです。

 人間のアートの受容のしかたはテクノロジーに規定されるわけで、その時代には音楽を聴くということはいまよりいくらかシリアスなことだったと思われます。

 もちろん、そのさらに昔、レコードすら存在しない頃にはさらに真剣だったことでしょう。

 トーマス・マンの『魔の山』で、山上のサナトリウムでモーツァルトか何かのレコードを流す場面がありましたが、とても神聖な時間として描写されていた記憶があります。

 ようするにテクノロジーの進歩は、ひとが小説なり音楽といったアートに向き合うことをきわめて気楽なことにしてしまったのです。

 それが良いことなのかどうかは一概にはいえません。

 見方を変えるなら、ぼくたちは作品にほんとうに真剣に向き合うことを忘れてしまっているということもできるかもしれません。

 あまりにも大量の小説やら映画やらアニメやらがあふれているいまの時代、かつてのように「人生で数少ない貴重な体験」として物語を味わうことは不可能に近いように思われます。

 いまではもう一期一会の真剣さで物語と付き合うことは非常にむずかしい。

 どうしたって、ある程度は「気楽」なスタイルで膨大な物語を次から次へと消費していくという形にならざるをえません。

 しかし、